夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

ファッションとは。

ファッションとはなんであろか。

中国では、かつてわかりやすい象徴として金無垢の時計が良いとされた。戦争が起き、避難船に乗るときその時計があれば乗せてもらえる、個人用セーフティネットのようなものだ、と。
そこには金の純粋な美がどうしたこうした、というものはない。
金色は単に高価であることを示す色として存在している。

”今の消費者には夢や理想がない。個性やバラエティーに富んだ服を選ぶのではなく、みんなと同じで背伸びをしないのが良い。クルマも時計も家も、みんな理想を抱かなくなった。これが消費の退化だと私は考えます。”
     日経ビジネス 2010.9.13 小島健

ファッション業界に長くいるという小島氏はこう嘆く。

”これまでは毎年「ブランド」とか「ファッション」とか「アート」とか「美食」とか「女子アナ」とかいう消費生活オリエンティッドな研究テーマを掲げる学生たちが相当数いたのであるが、今年はみごとにゼロである。
「人はその消費生活を通じて自己実現する」という八十年代から私たちの社会を支配していたイデオロギーは少なくとも二十歳の女性たちの間では急速に力を失いつつある。”

    邪悪なものの鎮め方 P.281

2008年の神戸女学院でのゼミ生のテーマについて、内田樹氏はこういっている。

若い女性たちが「自分たちには何が欠けているのか」を数え上げることを止めて、「自分たちが豊かにもっているものを誰にどんなかたちで与えることができるのか」を考える方向にシフトしたのは、彼女たちの生物学的本能が「危機」の接近を直感しているからだと私は思う。”

    同上 P.284

以前僕は有名企業の創業者の一族に連なる履歴を持つ会社の上司に、「時計は安いものをするのがよい」という意見を貰い、反発を感じたことを思い出す。そのときのコメントは経営者がメザシを食べる姿を社員に見せてなんとなくやる気を出させる、という手段の伝授だったのかもしれないが、”おまえより明らかに金持ちである自分がこのような安いカシオのデジタルをしている”という個人攻撃なような気がして、反発していたのを思い出す。

いずれにしても、そのコメントは、実はみんながカネの掛かった時計や家やクルマが欲しい、という前提があって初めて成立するものであろう。
基本SPECがよく、身体に心地よい製品であれば、プラスアルファは敢えて求めずともよい、という今の気分、無理しないことは気持ちが良いものだ、という気分が周りに蔓延しており、であれば自分も余計な気を使わずユニクロを着ることができる、という流れに身を任せることのラクさを知ったひとには、クルマだ時計だ、という考えは時代遅れのように思えるのだろう。

外的要素で着たくもない押し付けられたものを着るよりは、好きなものを好きなように着ることは精神衛生上とても健康である。だが、個人ではよいが、”高級品”を売らねば成り立たぬ企業にもし勤める身なのでであれば、この現状は困ったもの、となる。

自分の現状を他人にアピールすることが生物学的に自然であるような中国のような国へ商売をシフトするしかないのであろう。

最後は身にまとうかりそめの服より、自らの身体が最後に残ってくるのであろう。自分の体をより健康に、より機能的にメンテする。

ユニクロでも、シェイプされた華麗な肉体と楽しむセンスがあれば、立派なオートクチュールとなるのである。

そしてあらゆるブランドもオートクチュールも、そうした快適感、をスタートにして発展してきたのではないだろうか。



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殺人の悪と自身の善


おそらく彼は、突然の回心を得た時、殺人の悪に気づいたのではなく、自身の善に気づいたのだ。(中略)殺人が悪であることと、人間が善であるということは、似ているようで微妙にずれている。しかしこの微妙なずれは決定的で、それはやがて宇宙大の幅にまで広がるようになるのである。
            池田晶子 新・考えるヒント
            P.63 四 良心 の項より

池田さんが睦田真志氏の状況について述べた文である。池田さんにして上記の理解には必死の往復書簡を経て数年が経ったのちにそう了解したことだということで、その当時は明確に把握していなかったとのことだが。

先日睦田氏が死刑を執行されるときに述べたことばが、これで池田さんの傍に行ける、というようなものであったことを紹介したが、これは一見生きている今より、死んでいったあとが待ち遠しい、という負け惜しみのように響く部分があるのだが、その気持ちがそうではないことに気づく。睦田氏は池田さんとの会話を経て、完全に学びのスイッチが入ったのだ。それを池田さんは回心、と述べたが、その語のとおりまさに心が回転するような自身の驚きを以って睦田氏は学んだことであろうと思う。それは一つには池田さんが”哲学の巫女”を自称する(この”自称”という言葉は、ややもすると”本当はそうではない”というニュアンスが染み付いているが、ここでは”本当にそうであることを本人も実感して”という意味で使用したい)が、つまりそれは大きく真に考える、考えざるを得ない生を送った賢人たちの世界への入り口としての役割を池田さんが担っていたことから起きたことであろう。つまり池田さんは真の哲学、考えるということの世界への入り口となる教師であったのである。池田さんは読者に、私を教祖とあがめるな、という。自分の読者であれば自分を教祖とあがめることは無いだろう、という一見自信を示すような語で語られるが、実は結構心配されていたのではないだろうか。

池田さんを通して開ける世界は圧倒的な解放感を約束し、その素晴らしさに触れてしまうとそのメンターとなった池田さんにも圧倒的な感謝の念が起きるわけである。この気持ちは睦田氏の辞世の言葉でも感じることができるし、そして僕がこのような文をつらつら書いてしまう動機もまたそれである。そしてその感謝はややもすれば宗教が約束してきた感動と非常に類似したものであるだろう。

しかし冒頭の文章はどうだ。留置所からやってきた一通の手紙を契機に、相手の魂と徹底的に対決し、対話し、そして相手は感謝と期待(!)を以って死に赴く。悔悟師、ならぬ、改心ではなく回心へと導く回心師、とでも言うべき仕事を池田さんはなされたのである。勿論それには、回心を求める魂、があったからであるが。

 

新・考えるヒント

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死と生きる―獄中哲学対話

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