夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

穏やかな正月となった。

海外では、新年は単なる新年で、クリスマスのあと特段祝うことはないようだ(中華圏は除く)。

昨日から降り出した雪が積もっていたが、日が照って来て初春の初雪も儚く消えてしまうところだ。

ゼラニウムの鉢植えを昨晩念のため雪の掛からないところへ避難させた。強いと思っていたゼラニウムが思ったより弱くて、前に数鉢枯らせてから怖くなった。100円ショップで買ったプラスティックの鉢に、同じく100円ショップの土、150円のゼラニウム2つを其処に植えたのは、だから枯れた時の自分への保険の感覚だった。また枯れたら哀しいよね。

今のところ生き残っていて、花もどんどん挙げてくれる。こうなると枯らすのが怖くなる。安いからしょうがないよね、という言い訳が利かなくなるのである。

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いつからであろうか、新聞を読んでいて、”読んで得したな”とおもう言葉を捜すようになったのは。ひねくれものなので、美談やこうあるべき、と押し付けを感じる文章は読まないようにしている。政治的な記事は最近昔の自分からすると驚くほど読むようになった。これも政治というよりは、政治家個人の色が見えるようになったからである。朝日を取っていたころは、社説や投稿欄を読むことはなかった。生まれたときから朝日だったので、読むべき記事と読みたくない記事は瞬間的に判別していた。社説は自慢ではないが、読んだのは今まで2−3回だろうか。投書欄は中学生くらいのときは結構好きだったが、高校生位から妙に鼻に付くようになった。不平不満を読むのが苦手だ。困っているのだろうが、人に、政治に、なんとかしてくれ、というのを読むと、さて、誰がそれを受けるのだろう、と思っていた。誰も受けていないように感じた。言うことでのカタルシス?であれば読んでストレスを感じることはないよね。自分のことは自分で、といえば何様かと問われそうで。でもそう感じていた。腹くくれてないのではないの?で、それを読んでそうだそうだ、というのは生理的に嫌だった。

だから人に、政治に意見して直してください、という以外の投書はいい。またついポロリと本音が垣間見れる文章はいい。今は読売だが、ここの投書欄はあまり人に意見を言ってなんとかさせよう、というものが朝日と比べてすくないように思う。選者の色か、読者(投稿者)の傾向か。どちらも在ると思う。へえ、新聞にもいろいろあるんだな。朝日がいろいろ言われて、なんで?と思っていたが、もしかしてこういうところ?然しいまだ読書欄やののちゃん(休載中?)、しりあがり寿あたりのマンガを見る限り、朝日も面白いところはある。いいセンスを持った社員の方がいる。嫌なところは読まなければいいのではないだろうか。面白いところを見逃すのは勿体無いし。

情報を入手する読み方ではあるが、どちらかというと新刊案内や読書欄、文化欄のために新聞を読んでいる。だから日経はすこしきつい。新聞を読まない、というか、新聞を購入するのは贅沢だ、という意見を聞いた。ちょっと眼から鱗の意見だった。すこしびっくりしたのは既に”古い"感覚か。新聞は読むべきものとして僕の前にあったような気がしていたが、考えたら別にそんなことはない。確かに、”贅沢だ、情報なら携帯で入手せよ”。わからなくもないが、僕は情報も欲しいが、それ以外も欲しいので、いまだ新聞を読んでいる。ただ、だんだん減ってゆくのだろう。切り詰めるべきコストの優先順位として、新聞購入は今結構高いところにあるのではなかろうか。

元旦の新聞は記事が多い。対談や特集があって、面白い。あと”チラシ勝負”というものもある。チラシを見て、物欲が湧いたら負け、沸かなかったら勝ち。勝手に脳内で個人的に課している勝負だ。元旦はチラシ(特に福袋)が多いので、負けるかもしれない。
心して挑んだがなんとか勝ったようだ。これは実は負けるのも楽しいのだ。負けるということは欲しいものがあるということ。堪え性がないので、買える場合は結構買ってしまう。それも又良し、なのだが。少し残念だった。

だが、良い記事があったらそれは帳消しだ。外山滋比古さんが読書について語ったことばがいい。

”本を読むのは面倒なものだ。”のっけからいい。

メモを取りながら読むより、色を変えた線をひけ。裏表紙にそのページを記せ。線を引く場所はすくなければすくないほどいい。多くて15-6箇所。

"記録することでいったん、忘れられ、安心して他のことが考えられる。感動したり共感したりしたことは、忘れたとしても頭のなかに深く残り、潜在的な記憶として後になってふっと浮かんでくる。忘却をくぐらせた知的発見は、読者の経験とも結びつき、新しい、オリジナルな思考が生まれる。本は読者と共に熟すのだ。”

引用すべき箇所が途切れない。僕はこうして書き写す(ノートのこともあればこうしてPCの時もあるが)ことで、脳にくぐらせることが出来ると感じて、励行している。
確かに、そうした過程を経ると、あとで”ふっ”と出てくるときがある。それは結構嬉しい。カタルシスを感じる。創作したような感じがある。原料を入れて、なにか加工された自分印のものがでてきたような。

”昔から多くの人は夜に本を読む。だが、夜は疲れていて、頭があまり敏感ではない。朝のさわやかな頭で読むように切り替えるとよいだろう。”

大好きな池田晶子さんの本も、夜読むと残念ながら頭に入らないことがある。おなじ本を朝起きてボーッとした頭で読むと、すーっと分かるときがある。哲学の文章が少しわかったような気がすることさえ、あるのである!朝の散歩に池田さんの本をリュックに入れて、堤防で日の出を見ながら開けてみたりするときの素晴らしさ!

なんというか、そこに、永遠の、無限の空に、池田さんの魂、世界霊魂の魂と近しく語れるような気がするではないか!!

ちょっとスピリチュアルすぎる発言だったでしょうか??(笑

しかしながら日の出はいい。これも池田さんに怒られそうな携帯電話(会社が持て、と言ったんですよ、池田さん)で日の出の空を、同じような写真を、朝、散歩するたびに、撮っている。

”本は有用だが、本に"読まれて”しまってはいけない。人間にとって、自分で考えることが第一義的に大切で、知識はその次だ。”

この箇所にも膝をぽんぽん叩かざるを得ない。またまたで恐縮だが池田さんが”悩むな!考えろ!”とおっしゃったことも思い出す。本を読むために本を読むのではない。考えるために読むのである。
時間は有限、心してゆきたいものである。

門松や 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし

                     一休禅師

(一休と親交のあった遊女、地獄大夫が一休のために詠んだものとの説もあるそうだ。地獄太夫。凄い名前だ。そういえば薄皮太夫というのもいた。薄皮一枚の下は地獄。この名前もまた秀逸であるが、これは地獄太夫から来た名前だろう)