池田晶子さんの言葉をノートに抜書きしている。
日記形式で100円のシステム手帳に、100円ショップで買ったシャープペンで、100円のリフィール(ていうんですか)にて”つれずれなるままに”抜書きしたり、思いつくことを書いたり。
抜書きしているものを改めて読んで思うこと。池田さんが言葉の中に居る。池田晶子の”分魂”。抜書きなんかしていいのか、恐れ多い、という気も少しする。それだけ魂のこもった言葉なのであろう。
心して書くように。一言一言が絶句です。
睦田真志氏との書簡でそのようにおっしゃっていたように記憶する(正確ではないが)。あるいは辞世の句、であったかもしれない。睦田氏に伝えるようでいて、もちろんご自身の普段の文章へ接する態度のことである。
永遠であり、確実に自らのものであるこの瞬間に、全てを込めた文章を書く。
池田さんがされてきた仕事はこれなんだろうな、と思う。
このようなスタイルで日記を書いてゆくこと、正確には正当な日記とは言えない様な気がするが、いろいろ試行錯誤しているうちにたどり着いたスタイルではある。100円でそろえたのは、池田さんが、安いボールペンで、コクヨの原稿用紙に書いていた、ということも、少しだけ関係しているかもしれない。だが、安いがいいことを書こう、というような臭みが出ると(池田さんにある、というわけではもちろん無く、自分にスノビズム、やせ我慢、アイビーリーガーのほつれた袖、というものがスタイルとしてでるかどうかという意味で)ちょっと良くないかもしれないので、文房具関係では贅沢者で行こうと思ったりもする(池田さん、やはり僕はとことん凡人です)。
抜書きは一応出典を記載することとしている。池田さんの言葉の抜書きを自分の日記で読んで、なにかを感じてここに書く、ということもままあるのである。そんな流れで感じたこと。
池田さんは詩人だなあ。
巫女、ということば、神託、ということばとも近い意味での詩人である。例えばこれ。
死は先にあるものではない。
いまここにあるものだ。
死によって生なのであれば、生としての今ここに
死はまさにあるではないか。
こういう当たり前にして不思議な事実に気が付くと、
時間は前方に流れるのをやめる。
存在しているのは今だけだとわかる。
流れない時間は永遠でる。
一瞬一瞬が永遠なのである。
有限なはずの人生に、なぜか永遠が実現している。
永遠の今は完全に自分のものである。
こういう当たり前には、生きながら死ななきゃ気づかない。
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ
41歳からの哲学 P.56
僕の中にある”詩”というものに、大変近い、というか合致するものである。段落をすこし変えてあるが。
ここに書くなら原典をあたらねば、ということで、”41歳からの哲学 勝っても負けても”のほうを読んだが、そちらのほうではなかった。探していると、改めて思う。陳腐な言い方になってしまうがまさに”珠玉の言葉の数々”。
その中で実感としてのことば。
”朝日に限ったことではない。なべて新聞というのは、読者というのを低くみている。”
勝っても負けても P.153
子供の頃から朝日新聞であったが、ずっと感じていたのはこれだな、の感があった。低く見られるのは嫌である。わざわざ金を払って、低くみられることはない。新聞が最近若者に読まれない本質は、案外そんなところにあるのではないだろうか。
そして評論家が編んだ文学全集が売れず、作家が編んだものが売れるのも、同根のような気がする。
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