夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

引き続き。

人間は間違うことによってはじめて正しくなることが出来る。

 私家版・ユダヤ文化論 内田樹 P.225

この言葉は次のように続く。

人間はいまここに存在することを、端的に「存在する」としてではなく、「遅れて到来した」という仕方で受け止めることではじめて人間的たりうる。そのような迂路によってレヴィナス人間性を基礎づけたのである。


以上引用おわり。

この記載は、レヴィナスによるユダヤ教の説明を記述したものであるが、これは広く”責任ある人間の原態度”というものに繋がる真理を示したものでもある、と感じる。

昨日、”堕ちる天使”について記載した。
そこにある物語と結末が深くこころに残った。これはいわば映画を見たときからずっと引っかかってきたものだ。

それについて書いて見たい。

このあと、いわゆるこの物語のストーリーの根幹に関わる表現もあることから(いわゆるネタバレ)、それが気になるかたはお読みにならないでいただきたいと思う。

この話は、主人公であるハリー・エンジェルのひとり語りで進む。ここがまずポイントである。読者はハリーの意識と、人生観と、リアルな感覚と一体になって物語世界を進む。

伴走して、感じること、タフでわがままな私立探偵であるが、その魂は善である。
その行いは邪悪ではない。

要はイヤなやつではないのである。

昨日はこの物語は”裏ファウスト”である、と書いた。
これは一部正しくて、一部は違和感がある。どちらかというと、”同音異曲”であるといったほうがいいかもしれない。

これはどちらも、魂の遍歴の物語であるからだ。

ではファウストであった”魂の救済”はどうか。

手塚治虫の”百物語”はファウストを下敷きにした物語であることは有名だ。主人公のスダマはその名前が象徴するように、人間の魂に深く関わる存在だ。

”堕ちる天使”でもその構図は同じである。あがきと後日譚の形を取った現在進行形のものがたり。
しかし、そこで出てくる主人公のタイプは共通するのである。基本的には純粋である。なやみ、うろたえるであろうが真実に対する態度は共通する。

文頭にレヴィナスユダヤ教に関して述べたことを記載したが、これは”本来宗教によって人間が到達すべき高み”をすべからく示すものであり、そういう意味では全ての宗教に通じる回路でありうるものだと思う。現在はその回路が通じているかどうかは別にして、将来はつながるべきである、といったような。

堕ちる天使、で象徴的にもエンジェルという名を持つ主人公=読者たる私、が図らずも邂逅する有責性、これはいわばエンジェルの今の魂にとっては前世の有責性、といったものだ。

しかし、彼は関係したものの生をとおして、その有責性を感じ、最後はその有責性を自らのものとしてあえぎ、おびえながら正面から見据えるのである。

自らの身に覚えのない、前世の有責性。なぜにそれを敢えて受け入れるのか。その態度こそ内田樹氏の述べる宗教的感覚であるだろう。

主人公の意識に伴走してきた我々=私はこの結末に呆然としつついわば既視感も覚える。”やっぱりな”。

そこでの態度、それをどううけいれるのか、はすでに”前世の自分”が避けて逃げた態度ではありえない。

レヴィナスの宗教感では「私は自分が犯していない罪について有責である」とする。

ハリーの意識はまさにそれに近づくであろう。さらにより有責性を確信した時のハリー=私の意識、それは悪魔への敗北的勝利、ともいえるものであるのである。

20年以上の年月を経て、このレヴィナスの宗教感を知ってからみたときの、ハリー・エンジェルたる僕の意識は、180度違ったものでもあった。敗北的な勝利、の可能性としては、やはり本書は”裏ファウスト”ならぬ”別ファウスト”であるのかもしれない。

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