池田晶子さんは、売るために本を書くようなら、そのほかにいくらでも仕事があるではないか。人に伝えるために書くのでないのなら、筆を折るべきだ、といった意味のことをおっしゃった。
これはひどく衝撃的な言葉であった。
言葉をこれほど大切にすること。
言葉に接する人にとってそれは当たり前のことなのだ、とじんわりとわかってきたような気がするのはやっと最近のことである。
文筆家、と池田さんは自らのことを評されることがあった。自らのやっていることをどう表現するかで迷われる姿は、実はそのまま自らの行われていることに真摯に向かい合っていることを示す。
私事ながら、僕は高校を卒業するとき、”ではお前はなにになるのか”という問いを世界から突きつけられた、と感じたものだ。
本が、好きだ。それに関わる世界がいいかもしれない。
そんな風にも思ったが、ではそれは文章を”販売”することだ、という風にも思った。
食うためにはそうなる、とそのときは思った。
魂のなかでなにかちょっと違うかもよ、と呟くものがあったような気もしたが。だがしかし。
食べていかねばならないんでしょ。
なんだか、人に生かされているような感じだった。
小説の書き方を教えてくれる、という早稲田の一文を第一志望にした。それ以外の文学部では”食えない”と勝手に決めて。
逆にそこなら”ブンガクブでもクエルかもしれない”
そんな風におもいつつ、では限界まで入りたかったのか?というとなにかにひっかかっていた。しかし、ためしてみよう。
ちょっと言い訳感があった。なにに対して?誰に対して?自分は誰の為に生きるのか。
それは”僕は生きるためにたべている。君は食べるために生きるのか?”
とソクラテスに語らせた池田さんの問いと同じ問いだったのかもしれない。
それ以外の学部は”就職が出来そう”というところにした。
生きてゆかねばならないし。
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結局早稲田の一文には受からなかった。残念だったが、どこかでほっとしている自分もいたような気がする。結局法学部に入りいまここにこうしている。(あ、早稲田ではないです。早稲田の法学にも残念ながら落ちた。)
相変わらず本は好きだ。マンガもたくさん読む。絵もすこし描いている。
魂を持った文章を書ければよし、そうでなければ売文、というのはしんどかったかもしれないなあ。
池田さんの切り口鋭い覚悟の文章を読むたびに、
そんなことをぼんやりと思う。
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昨日と今日で買った(注文した)本。
食べるために文章を書くことにない人たちの文章が、ここにある。
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