夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

精神は疲弊するが、魂はどうか。

精神と魂が、そもそも明確にわけられない。

というか、

精神、というものがあるというのは多分すべての人が思っていることだ。しかしたぶん「魂」という語については、あると思う人とないと思う人がいるだろう。

たぶん「魂」という語での連想には、「宗教」「輪廻」という考えへの個人のスタンスが関係するからだ、と思っている。

そういう意味では、精神=個人、魂=全体に繋がる「一」の(区別されない)一部、とでもいおうか。

心、というとどちらかというと精神と魂をひっくるめたような印象である。もちろん個人の語法によって含まれる内容は変わってくる。端的にこうだ、とはもちろん決められないことだからだ。

人間はAIとは違うのだが、魂の乗り物たる「肉体」は少し「機械」と似た性格がある。例えば眠ることで、体力・気力がチャージされ、きちんと眠ったあと起きたときが(これは個人差があるかもしれないが)一番「充電完了」な感じである。精神は、私の語法でいけば、この「気力」を使って様々なことを考え、対応する内面的な機能のことを言おうとしている。

魂、はもう少し変化しないものだろう。個人個人の性格の本質のようなもの。もちろん「経験」によって変化する部分はある。だが後天的なものだ。その前に、各個人の本質的性格が、魂によってきめられているように思う。

その人の性格が、その人の魂を示す。

その人をよくよく観察すれば、そのひとが本質的にどういうひとかわかる、

とでもいおうか。

 

過酷な経験が、その性格形成に大きく影響を与えることはあろう。だがとにかく生まれ持った魂で、なんらかの「生まれつきの資質」のようなものが定まっている気がしている。

犬や猫は、なんとなく人間より遠い距離で、相手の発する気やオーラのようなものを「感知して」いろいろ判断している気がする。

なので、こちらが犬好き、猫好きであることで心を満タンにして近づくと、特に何もアクションしていなくとも、寄ってきてくれることがある。

そんなときは、なんというか嬉しくなる。

人はそのあたり感覚が鈍いし、ある意味本質を隠して近づくこともできるだろう(少なくとも短期であれば)。

だが、犬や猫に寄ってもらうと、自身の本質を認めてもらったような気がして、嬉しく感じるものである。

(野良猫の場合は、嬉しいんですが、誰でもこうして寄ってくと、悪いやつもいるよ、と言いたくはなります。。)