夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

小説、とは。

埴谷「できるのは、自分の胸の中の自由の王国を創る以外にないんですよ」

池田「ええ」

埴谷「しかし、そうすると、この自由の王国は、出来ることじゃなくて、できないことまでできる。考えられないことも考える。しかも、それを表現するっていうところまで行かなければ、本来の自由の王国じゃないっていうことになったわけですよ」

 無を書く営みー『死霊』の哲学 超時と没我 埴谷雄高対談手集

小説とは、

・世界がどういうものであるかを考えるための方法や道具を作り出すもの
・小説とは意味やテーマではない。
・読者としてひとつの小説を読んでいる時間のなかにこそ小説がある。
・文章によって何が書けるか、つまり、言葉によって何が書けるか?つまり、言葉によってどういう風にして世界と触れ合うことができるか?を試行錯誤するもの。

 保坂和志 小説世界の奏でる音楽

近代を特色づける特徴

1.近代科学
2.機械技術
3.人間の行為が文化として捉えられるようになったこと
4.芸術経験が美学という視座へ移ったこと
5.神々の退場=宗教の衰退

根本

世界が客体になった
人間が主体の位置に立って世界を自分の前に見るようになったことが近代という時代の本質

 ハイデッガー 世界像の時代 1938

詩、小説、哲学、そして、美術、宗教 というものの位置関係、というものを考えているが、これはどうも本来決まっていないものなのでしょうが、これはこうでなければ、という思い込みがなぜか自然に自分のなかにあった、たががはめられていて、気づかない、という状態にあったのは、人間存在というものに対する思い込み、世間のシアワセ、こうあるべき、というものに知らず知らず取り込まれているのと構図は似ていて、ああ、それは現代の迷信なのだな、そこから自由になることは、ものすごく自由になるのだな、開放されるのだな、ということを感じた。

自分でわかっていて、たがにはめるのはよいかもしれないが、知らず知らずの構図に取り込まれるのは、精神はちょっと気持ち悪いと感じているな、と思う。
でも、それに気づかなくて、その気持ち悪さが、自分には合ってない、ムツカシイ、と感じてそれらのものから離れてゆく。でもそれはもったいないような。

評論、というものに対する位置を自らの表現物で変えて見せたのが小林秀雄であったのだろう。評論というと、批評、対象物をテーマにいかに自分がよりすぐれているかを誇示するもの、という印象がまず僕にはあって、それは潔い態度ではないだろう、と。
しかしそれは批判、批評であって、評論というのは、対象物に対する愛、思い込み、入り込みをベースに、むしろそれを触媒として自らの思い、蓄積物、記憶、の中に潜り込む、深く探求してゆくような、いわば自由で愉快な行為、なのかもしれないと思った。洲之内徹の文章などはその典型であろう。たしか小林秀雄はもう美術評論は洲之内しかよまない、といったように思うが、むべ成るかな、といったところか。

ソクラテスの論理性が、前ソクラテスの時代の伸びやかさを奪うことになった。伸びやかさとは、”断片”と呼ばれる絶句のような言葉に含まれる詩につながるような、真実の原石のようなものに含まれていて、それは、自由、であり、未分化、であったかもしれない。

1冊の良い本があったら、ずっとそばに留まる。

そのことの贅沢を知れたものはシアワセである。折に触れそこに帰り、手を触れ、パラパラとめくると、その本に真空パックされた思いが、解凍され立ち上ってくる。

魂はそれぞれの記憶、思いの中にある、遠くから帰ってくるようなものではない、と小林秀雄は言ったが、本、というものも、作者の魂にアクセスする装置、と言えはしないか。

僕にとって、池田さんの本はそういった思いを起こさせる本だ。

これがあれば本は他には特に要らない、という。
よくありますね、無人島に持ってゆく1冊の本はなにか、という。

しかし、どれかひとつ、といわれると、困るが。
又11日には、多分最後、にあるであろう、新刊もでることでもあるし。

気に入った絵を1日中見る。対峙する。没我。没入。

これができたとき、対象は絵、小説、自然、風景、仏像、建築、写真、なんでもいいが、
その本質は、やはり、美、であろうと思う。これがイデア、ちゅうもんであろうか。
これは素晴らしい、という詠嘆を発せざるを得ないシアワセ。

それが自分で作ったものであると、なおいいが、しかしクリエーターはおっしゃる、つくり終わったものはもはや自分の手を離れる、と。
真に美を創るものの実感であろう。

しかし、確か池田さんのおコトバであったと思うが、”思索で深く潜るには準備が必要である。”

日中ばたばたしていると難しい。そういう意味での座禅。座禅好きは実は贅沢もの、わがままでさえあると思う。