夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

渡せない一通の手紙。

うらやましい!ということがある。

本を読んで、ファンレターを書いたら、思いがけず直筆の返事を貰う。書いた人は返事など貰おうと思って書くものでは無いだろう。あわよくば本人に読んでもらえたら本望だ。それくらいの気持ちであろう。そこで貰う、直筆の返事!感激以外のなにものでもあるまい。

池田晶子さんはファンレターに直接返事を書かれることがあったようである。ようである、といのは勿論僕は貰ったことがない。というか生前(・・・)、感想文を書いて送る、ということは無かった。
なぜ送らなかったか。残念である。今ならわかる。”自分の”感想に自信がなかった所為であると。”自分の”意見、感想しかもてないレベルであった。考えが、足りない、というか、無かった。

繰り返し、繰り返し言われたこと。自分で考えなさい。

考えれば、本当に考えれば、”自分の”考えはなくなり、誰のものでもない、真実に至る。そこまで考えれば、自信が持てる。
”自分の意見はない、真実はある”

そういったことがわかり、池田さんの本に書いてあることは、池田さんの意見などではなく、真実に過ぎない、しかし、真実に至り、それを生のままポーンと提示してもらえる文章。それはなんと稀有のことか。その驚きは、単に真実に直面したことに対する喜びだ。
しかし、考えてみると、それを与えてくれたものは、”池田晶子”という魂だ。書き手だ。その事実に対する感謝。それが”池田さんへのファンレター”になるのだろう。


”自分が”池田さんの本を読んでいます。”自分が”素晴らしいと思いました。そんな感想をいくら送っても、”自分はすごいデショ”みたいな感じで、気持ち悪いな。
すくなくともそう感じるだけの感覚があった。だから出せなかったのか。それがわかりました。

ではなんだ?この文章は?匿名とはいいながら、池田さんの本に対する感想を、池田さんが大嫌いなブログという形式で、書き連ねているではないか?

それはやはり、自分で考えて、自分のなかで、真実として見つけたものを真実だから書いてゆく。真実なら、それがブログであっても、独り言であっても、お経であってもいい。そう今は思っています。

夢みるように、考えたい。

自分の考えかたは、夢を見るように、ふらふら、あっちにいったりこっちに行ったり、夢遊病レベルであろう。しかし、考え”たい”。考えることを希求したい。そんな思いでつけたタイトルです。

精神のリレー。埴谷雄高氏と池田晶子氏の会話のなかでよく出てきた言葉だ。なんとまあ、レベルが違う、向こうはウルトラマンキングから、ウルトラの母へのリレーで、こちらはウルトラの母からゴキブリAへのリレーかもしれないが。でもリレーであることはそうだ。なんとまあ、池田さんのバトンを、受け取ったあとは、自分に合ったレベルであるが、でもバトンという真実を、僕も受け取っている。参加している!

そう気づいたのです。
なんという素晴らしさ。

出せなかった一通のファンレター。

それの答えがこのブログになってゆくのであろう。

土人に川の神がいるのは当たり前だ。
では現代人に神がいないのはそんなに当たり前か?

いつかは池田さん(の魂)が苦笑して、
”まあ、頑張ってんだけどねえ”と言ってもらえるような一文を
モノして見たいものである。

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人生は愉快だ

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