引き続きユングを読んでいる。
ふと改めてすとんと腑に落ちたことがある。
概念はわかっているがピンと来てなかったこと。
つまり、手段と目的は違うということ。
手段に淫すれば、生命力の浪費となる。
目的のため手段を行使すれば、生命力に繋がる、あるいは豊かに増やす、増大させる。
若年時、その身がそれを納得していてもしなくても、教育の歳ともなれば自動的に”手段を学ぶ”。
自動もいい。強制的に身に着けるもの、たとえば字、読むこと、書くこと。
数えたりすることも必要だろう。
しかし、その時に個別の受容可能度を斟酌する余裕は学校にも教師にも十分ない。
なので、いつしか、手段を学ぶことが目的となる。
このことを折に触れ、教えるべきだろう。
目的のために手段を学べ。その逆はよくない。
これに似ていることば、池田晶子さんの著作で鈍い僕がぼんやり学んだこと、そう、”君は食べるために生きているか、僕は生きるために食べる”だ。
そうか、これは同じ事だ。
いつもそれに意識的であらねば、と自分で思ったのは、なんと昨日だ。遅い、遅すぎる。
だが、今日は自らのこれからの人生で最も若い日、というではないか。
遅い、という前に意識的であらねば。
これはユングの著書を読み、深層心理を探求するには、細かいものを見るのにルーペがいるように、補助機能=手段が必要だ、という記述を読んだときに思ったことだ。
補助手段とはすなわち”心理学”。
いや、医学。心理学。稼げる、就職できる。
大事なんだが、なんと大事でないことか。
これは、池田さんの(又ですみません)の、文章は売らない、と同じ事だ。
売るための文章を書くような仕事をするならほかでなんでもいい、稼げばいい。
このあたりまえにして、あたりまえすぎることを、他の作家から聞いた事はなかった。
これも、これだな。
一貫している。しすぎているくらいに。過剰に。
だがそのことを言って、なにか自分に得があるわけではない、むしろ、疎まれる。損、しかない。しんどい。
でもいう。
本当のことだから。
なんと、”人類のために”だ。
1000年後の人類へのメッセージ。
スケールは元から違う。だからご自身を巫女と称されたのだ。
永遠とつながった、この口。
だれがいうのではありません。真実が真実を、語るのです。
そこが、僕が、池田晶子という人を、素晴らしいと思うところだ。
自分、がない。
正確にいうと、社会がない。
社会性はありますよ、と書かれていたが。
社会がないから、そのなかに絡みとられる”自分”はない。
それとはちがう、今ここの”自分”はある。”私”はある。あるか?
そこは考え続けられたところだが、いずれにしても、それはそれ。
今日はユングを読んで、池田さんのことを思った、ということに、
やっぱり結局、行き着いてしまいましたね。
池田さん。