人生の終わりに後悔することは何か、という質問がある。
後悔しないように、できるときにやろう、というのが趣旨であろう。
僕の場合はどうだろうか。
友情、というものがある。そういう言葉が在る。
友情といっても、考えてみればこれは究極には自分と相手によるものであり、”全てが個別、オーダーメード”である。
友情、とはなにか、ということを考えていた。
例によって、池田晶子さんの言葉を引く。
p.158 私とはなにか より。
友達というのは、自分が選び、自分が作るものであって、(中略)
この人は好きだな、友達になりたいなと感じたなら、つきあってゆく過程で、その友達を感化してゆくのです。(中略)
その人の友達を見れば、その人がわかるとは、昔から言われていることです。友達は自分の鏡だし、自分は友達の鏡です。お互いを感化し合いながら育んでゆく友情というのは、本当に素晴らしいものです。つきあっていいか悪いか、その人とつきあって損か特か、あらかじめそんなふうに選んでつきあう友達との間に、本当の友情が育つとは思えません。
友情は宝だとも、昔から言われます。でも宝は、探すものではなくて作るもの。宝を作るためには、自分自身が宝のような人間にならなければならない。自分がそうした人間になれば、宝のような友達は、現れるに違いないのです。
【初出】プレジデントファミリー 2006年11月号
池田晶子さんという稀有な魂に(文章を通して)出会い、そしてその人のことをもっと知りたい、何でも知りたい、と思う事、これは何と名づけるべきなのだろう。
まあ、実際に会ってはいない、一方通行であれば普通は”ファン”であろう。まあ、僕も”いち池田ファン”を名乗ってきた。
しかし、それには”照れと衒い”が入っている。本当は、池田さんの”魂”に近づきたい、そのおっしゃることを深く感じたい、という思いがある。
これは本当は”ファン”以上のものだ、と実は(あつかましくも)思っているのである。そして、池田さんは、そういう思いを持つ”読者”を愛し、理解してくれようとなさった。
多分この”読者”という言葉に、池田さんは深い思いを、感謝を、持っていらした。金を稼ぐためなら他の仕事をすればいい。
でも私は、書きたいから、真実を伝えたい、滅び行く人類に、1000年、いや2000年以上先の人類に向けて。
ソクラテスは現に数千年の時を軽々とこえて、ほらそこにいる。ほら、ひょい、と私に憑依する。巫女たる私の口をして、伝える。
そんな魂を、僕は、私は、読者は、世界精神は、愛した、といえるだろう。愛している、といえるだろう。
果たしてこれをなんと呼ぶべきか。
友情?
愛情?
尊敬?
師事?
それのどれでもあり、どれでもないような気がする。
そしてもうどうでもいい、これはこれ。
そんなキブンにもなってくる。
所詮は言葉。友情は相手と自分の魂のそれぞれ個別のオーダーメイド。どう、料理してもいい。どう、慈しんでもいい。
池田さん、そんな気持ちになってきました。。
おっと、今日は宇野千代氏の事を、と思っていたのだった。
終わりそうになってしまった。。
宇野千代、この人の名前もまた、池田さんから教えて頂いた。
勿論それより前に知ってはいたが、気に、していなかった。
池田さんがその著作の中で、宇野千代さんの”私、死なないような気がするの”ということばを引いてらした。
ん?誰かなこの宇野千代とは。マスコミを通して受ける”恋多き女”という(多分に余りいい意味ではない)ニュアンスとは、違うからこその池田さんの引用なのだろう。
そう思ったのがきっかけだった。
思い込んだら、一直線、という女性だったようだ。そして、目立った。
4度の結婚。ただ、初めの1回はなんだかよくわからない親戚同士のものだったようだが。
戦前の田舎のなかの連帯。しかし、2回目以降は、なんというか、なりゆきで、勢いで、という感じである。宇野さんの書いているものを見ても、ドロドロはあったのであろうが、伝わってこない。
好き、と一瞬で思う。そう思ったら一途である。
周りが、それをどう見ようと、意にかけない、というか気に出来ない。
この辺り、共感できる。僕もまた、”一途系”なところが、ある。
例えば、梶井基次郎。宇野氏は自身は”面くい”だという。そして梶井は”面くわれなさすぎる”。
だから自分の中では恋愛はない。しかしその文学的才能を愛し、いつでも一緒にいた。だから周りからは誤解された。
そして梶井自身は違ったようだ。
これはなにか。周りからとやかく言われる。梶井自身の思いもまた自分とは違う。でも、それでいい。
これが宇野千代、なのだろう。
悪く言えば、”自分自身のために、人に尽くす”。
人に尽くすのは本来は人のためなのだろうが、しかしその根本はやはり”尽くしている自分が、自分にとって大事”というものであろう。自分のため。ここでは”所詮”といいたくない。所詮、ではない。
そんな宇野氏は、だんだんと非常に魅力的な人に見えてきた。
シンクロニシティ。共時性。ユングのいうこれを、宇野千代で感じた。
”生きている私”を読んでいた。薄墨桜のことが載っていた。会社の研修にいった。昼休み、隣の公園で”薄墨桜”を見た。多分、株分けしたものなのだろう。が、しかし。
家に帰ると、新聞を見ると、宇野千代氏の写真がバーンと。
いや、載っていないとはいわない。でもなぜ、今日なのか。
それが同じ日に起きた。これは共時性だわ。そう思った。起きたな。
まあ、宇野氏からの、メッセージなのかもしれない。
池田さんを語るとき、”宗教”が近寄ってくる。決して教主と呼ばれない、呼ばれたら負けだ、とおっしゃる池田”教祖”に安心して本を紐解く。
そう、安心。
池田さんを紐解く時の、僕にとっての一番のキイワードは実は”安心”なのかもしれない。
これはもしかしたら”母性”かもしれない。
お子さんをお持ちにならなかった池田さんだが、読者は精神のリレー先であり、精神の子供たち(その身体年齢には関係なく)ではなかったか、と、
ふと思ったのである。
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友情とは、魂の、此の世の奇跡的な生のなかでの、一瞬の邂逅であろう。それが”友情”と呼ばれようと”愛”と呼ばれようと、本質は変わらないのかも、しれない。