罪、というもの。
その時あなたはなにを食べた。
池田晶子さんの著書を初期によんで、この人は本当のことをいう、本物だ、と感じたのは、冒頭のコラムを読んでのことだ。
記憶で書くので定かではないが、JRの脱線事故が発生したとき、JR幹部が鍋かなにかを食べていたことをマスコミに報道され、”世間”から非難を浴びたときの、マスコミへの言葉であったと記憶する。
報道したマスコミへの言葉。
”その時あなたはなにを食べた?”
自らも食べるという行為を為すはずだ。
事故のときたまたま宴会であったのは、勿論”間は悪い”。
だがそれだけではないか。
”責任ある立場の人間が知らせのあと宴会を中断しなかった”
そこで聞くのだ、”その時あなたは何を食べた”
イエスは言った、汝らの中で罪なきものはこの女を打て。
いっしょだ。
池田さんはいった。マスコミは覗き見の親分だから(いや、正確ではありませんが。そのような意味をおっしゃったということで)。
覗き見するものの心象、罪あることを抱いて女を打とうとする民衆の心理。覗き見、を生業とすること。文章を売る、ということ。
弱い、に逃げ込むのが人間の言い訳だが、両者に共通する醜さ。
そしてそれを知りつつ、無い振りをする2重の醜さ。
心象下劣。下品(げほん)。
最近であるが、まさにそのことを感じる機会があった。
2回ほど、立て続けに。
受け手に回ると、結構これきついものである。
けさ、起きたら、この言葉が来た。汝らの中で罪なきものはこの女を打て。
そして次に池田さんの言葉。
うーん、そういうことか。
まあ、本来は打たれるものではなく、打つものへの言葉。
だが、それは打たれるものへの言葉でもあったのだ。
それがわかった。
きつい機会であったが、それを感じる機会でも、あったのかもしれない。
人間の、初期設定、これはたぶん余りたいしたことは、ないのだなあ。
windowsならぬ、池田ソフト、必要だなあ。
道教、という。鬼神を語るのが宗教、あの世を語るのが宗教と定義するなら、そこから外れよう。
死した人を祭るのが宗教なのか。
それでは、死したということそのものを語るのはなにか。
死してなお、教祖たることを拒否する池田さんのことを思う。
いわば”考える”教。”教”の語に”盲信する”が含まれやすいので、”考える”だけになるだろうが。
ちょっと、わかりにくいですね。