夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

2011年。

新しい年になった。

こりゃ誰だ、この歌なんだ、おおみそか(うろ覚えのサラリーマン川柳

という状態であった。前は例えば生まれたときからあった家の宗教に反発するかの如く、紅白というものを意地でも見ない、というスタイルで、早々と眠っていたが、昨晩は珍しく1時まで起きていた。目の前が神社であり、12時ちょっとすぎに初詣でも完了した。

TVを余り見ることがなく、嵐、というグループでは誰が誰かは名前は勿論わからないが、その中の3人くらいの顔は覚えたようだ。

と、浮世離れしていることをことさら誇るわけではないが、世の会社員というやつは、多かれ少なかれこんな調子であるのだろう。

昔は人並み以上に歌番組を見ていた感があるが、やはり自分の年よりも若い歌い手がほとんどとなると、其れを見てファンになる、という気持ちに若干のブレーキがかかる。勢い同世代の歌手を応援する。芸能界で古い歌い手が命脈を保つことができるのも、人間のそんな心理からかもしれない。

紅白の視聴率が下がる、というのが引き続き話題ではあるようだが、このような全方位型の番組で視聴率が取れなくなったのは、自分の世代に属さない歌手を見続ける外的な家族の強制力が衰えたことを表すのだろう。自分の場合に当てはめると、演歌歌手が普通に歌うのをTVの前で耐えるのが堪らない。見ないか、チャンネル変更、となる。視聴率が良い頃は、家族のだれか(大体は祖父母か)の楽しむ時間なのでガマンしなさい、という強制力の働く場であったのであろう。

その対策として、演歌歌手の後ろで踊るAKB、というのはわかりやすくも笑えた。我慢してね、視聴者さん、という製作側の声が聞こえるようだ。AKB、にしても、1人しかわからない。昔は、妙にアイドルに詳しい、というスタンスだったんだけれども。。

しかし、紅白を見てこちらも少しストレスを感じるのは、生放送ゆえの緊迫感だ。間違えられない、ということ、間違えたときの”やっちゃった”というあの空気と間。会社で人前で話してありゃりゃ、というときのことを妙に思い出して、放送中祈るような気もちになるのである。これはストレスフルだなあ。

人はTVの中の同世代の歌手の姿を鏡のように見て、自分の年齢を実感するのだろう。

 年齢とは、これに進んで応和しようとしなければ、納得のいかぬ実在である。

 ”還暦”の中で小林秀雄が述べている。池田晶子さんもよく引用されていた印象がある。要は自身が一瞬一瞬死に向かっていることを積極的に迎え入れること。老眼になった池田さんも、”ああ、これは”と自身の変化を素直に、客観的に見つめていたものだ。テーラワーダ仏教アルボムッレ・スマナサーラ師は人生の無常を観じ、生は苦しいものである、ということをまず第一に自身に納得させていきよ、と説かれる。

本年の抱負、というほどのものでも無いが、まずはそのような境地について、つらつら考えてゆきたい、ということがそれになるだろうか。