夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

表現。

生活しているだけでは足りぬと信ずる処に表現が現れる。表現とは認識なのであり、自覚なのである。いかに生きているかを自覚しようとする意志的な、意識的な作業なのであり、引いては、いかに生くべきかの実験なのであります。

           小林秀雄 表現について 全集18巻50ページ

表現するとは、己を圧し潰して中身を出す事だ。己の脳漿を搾ることだ・・・・・・・

           同上 全集18巻32ページ

久しぶりに神保町へ行った。初めて行ったのは確か18歳のころだろうか、東京地区の大学受験をした頃だったようなかすかな記憶がある。その頃から僕にとっては憧れの聖地というべきところであり、それは引き続き聖地であり続けている。

とはいっても本の購入に関してはセーブをかけている時期とかけていない時期、というのが自分のなかで潮の満ち干のようにあり、それはやはり貯蔵可能区域の有無と地続きなのである。

そういう意味ではこの2年ほどは人生では稀有の幸せな時期であった。というのは空っぽの書架を約3架も持ったからであった。最近は断捨離、というんですか、捨てる技術が流行っているが、これなぞは捨てることが出来るのは頭が整理できていることで、思い出を上手く処理できることだ、ということに結論付けているあたり、深く納得しつつではこの溢れかえった本は・・・・となる。むろん整理(別離!)せねばならないという結論は彼岸に垣間見えているのである。見えてはいるが、見えたままにしておきたい、しばし・・というのが偽らざる気持ちである。

池田晶子さんなどは、そのあたりはすっきり気持ちいい。的確な文章引用なぞを見ると本との付き合い方はきちんとプロであった、という印象ではあるが、”このアタマひとつあれば考えることにフジユウなし!”という突き抜けた認識が小気味よい。よいのであるが、そのあたり”すみません、捨てられません、池田さん”といった感じである。思い出となにかあとで役にたつかも(なんの??)というよくわからない予感のようなものをみみっちくのこすこと、これはむしろ”将来への希望”のようなものかもしれない。ささやかな言い訳。

だが最近は将来とはなにか、今が永遠で未来も過去もないのだよ、というこれまた池田さんの教えを知れば、それもまた考えの足りない拘りであることもわかってくる。

そんなこんなで、でもまだ空っぽ(本当はダンボール何十箱の本を移動するためのスペースであったのだが、それは結局まったく開けられることなくそのままであって)の書架がある、といういいわけでブックオフで主にハードカバーや絵本をノーリミットであさる日々。なんと甘美であったことか。。。

しかしもう入らなくなった。もう駄目だ。あとは入れ換え、或いは処分しかない、という状態となった。そうなるとブックオフ通いもすこしスピードが鈍るわけである。取り敢えず買っておけ、とささやく声?に対して嬉しく楽しくはいはいといってレジにおもむろに進めなくなってくるのである。

とまあそんな時期でもあり、昨日は基本的には神保町へはたまたま別件で行っただけでもあり、じっくり見ることは出来ず。しかしいまはブックオフにより既存の古本屋経営が圧迫されている、ネットにより古書の価格が全国統一認識となり、セドリもしにくい、という環境の変化はあるものの、それによりやはり店主のポリシーと拘りの目利きによりセレクトされた本を売る店、という古本屋のよさは却って際立った面がある。むろんそうではない、そうしたくとも品が揃わないような地域の古本屋は無くなったであろう。そして地方では客の絶対数減も勿論あるだろう。でもそも古本屋に気軽にアクセスできない身であれば、やはりブックオフがあることは楽しいか楽しくないか、といえば楽しいのである。そして個人店主が主である古本屋は、7時や8時で閉店だ。神保町であれば、6時?。であれば例えば東京出張帰りに行ってももう一部の店しか空いていない。このご時世、名古屋から東京で宿泊、というのはありえない。結局就職後、ほとんど聖地神保町へ赴くことは数数えるほど、であったのである。

通える状態であれば、どうなっていたか、それはそれで怖いのであるが。

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その池田晶子さん関係でいけば、最近考えているのは、”女子”と”男女”。後ろのほうの言葉はグノーシスでいう理想の状態であるが、卑近な印象とどうしても繋がるところがまた難しい言葉である。
女子、ということばは最近特に”女子会”等で認知度が上がっており、一種の”最近のキイワード”となっている感がある。そうすると”鮮度”が生まれて、”賞味期限”が発生することから、ある時期から使用することが恥ずかしくなってしまうことは運命付けられた言葉であるのかもしれないが。

この”女子”、最近は少し聞かなくなった”アラフォー”の活用形、という面も一部あるようだ。池田さんは考える精神に男も女もない、と喝破され、ジェンダー論者から”男に媚びるな”と言われて何時でも議論に応じますよ、とおっしゃっていたのが鮮烈に記憶にあるわけだが、ここで、”考える精神に男も女も(そして池田晶子、という個人も)ない”と考えることがなぜジェンダー論者に引っかかったのかを考えると、そこで出てくるのがこの”女子”という言葉である。基本、”損をしたから取り返したい”或いは”損をしそうだからしないようにする”という意識があるかどうか。ここに自らの立場、というものが在る、という立場と、そんなものはそもそもあるのですか、とする池田さんの意識の大きな立脚点の相違がある。そもずれている。

たぶんそのあたりのずれ、違いを論じられようとしたのであろうが、僕の読む池田さんの文章の中ではその結果はなかったように思う。だが、”損をしたままでは損だ”という意識から離陸して宇宙大の視点をもてば、自由ですよ、という池田さんの視点には、僕はやはり大きく解放感を感じてしまうほうだ。