人間は本来美しいものが好きである。美しいものは売れる。
ピニンファリーナ先代経営者のことば
美しいものが欲しい、おいしいものを食べたいというのは本能。イタリア人は個人の幸福を徹底的に求める。
読売新聞の著書来店欄から。
命とは自分のものであり、脈々と連なってきた前の生命のバトンの結果でもある。自ら頼んで生まれたわけではない、という面もある。頼んではいないが、次の世代、というテーマは生きる中で出てくる。ではどうするのか。
一つは子孫を残すこと。一つは生命のバトンを個々の命ではなく捉え、いわば精神のバトンとして残すこと。
与えられた才能は自らのみのものとしてではなく、天から与えられたものとして認識しないと、才能がある時点で枯渇する、という事実を内田樹氏が最近のブログにて述べられている。そして頼んではいないが生まれている、という時点で自分には責任はないが責任がある、というのが生命というもののあり方であろう、というようなことを思う。これは同じく内田先生がおっしゃるユダヤ人の”罪を犯す前に罪人である”という意識と地続きなものであるように感じている。
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自分のものである生命であるのに、先天的に備わる有責性。知らない間に責任がある、という。これが生命の唯一の義務であり、善く生きる、というものはこの責任に立脚する。これを意識することが”成熟する”ということなのではあるまいか。
おとといは快晴の中、富士山がはっきりと見えた。子供に言って写真を撮らせる。雲もなくくっきり。同じく読売書評欄に宇宙飛行士が撮った富士山の写真。当然火口を上から望む形である。凄い写真である。凄いが、しかし地面から、新幹線から採った写真とは地続きなものでもある。そんな風に感じる。
同じように乗り物から撮ったからかもしれないが。
同じく読売書評欄から。ここでは川上未映子さんとコイズミさんの書評が出るのを心待ちにしている。蜂飼耳さんのもだ。ミーハーかなあと思いつつ、昨日は嬉しいことに川上さんの書評が。最近少しご無沙汰だったので嬉しい。生きる、ということのもつ本質的な暴力性を、それを問うことは状況に対し常に遅れる、ということを引き受けつつ論じた 大澤信亮「神的批評」を論じていらっしゃる。
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ここでも出てくるのは”遅れ”だ。遅れは罪である。遅れている、という事実により責任を果たせていない。だが責任感はある。こうしたはがゆさと申し訳なさが遅れの持つ本来的な性格であろう。
遅れはしかし、それを普遍的に持つことを個々の魂はあまねく感知しつつ、それを眼前の問題としてはあまねく扱いたくない、というかたちで扱われる問題でもある。その問題に”逃げず取り組もう”とすることが、面倒であるが大切なこと、であるような気がしている。
それとこの”神”なる語。昨日論じた”女子”と同様、存在を性格付けようとする語だ。しかしこの使われ方だと早晩飽きられることであろう。この語の本来もつ力を考えると、勿体無い、という気もするのだが。昔は類似の概念を”鬼”と言ったような気がする。どちらも精神的なものを示す語であるところが興味深い。
その語を使うことで、なにか神や鬼とどこかで繋がることができるような願望をどこかで感じつつ、この語をみんな使っている気がする。潜在意識下で。
美しいものは生きる、ということと密接に繋がる。遅れに逃げないで善く生きる、ということは美とも繋がる概念である。そんなことを考えたりもする。
つなり善き事を目指すことは、美しい、ということになろうか。
そして美しいものが売れるのは、生の持つ残酷さ、に魂がどこか耐えられずに、一つの救いとして求めている、という感じも受ける。どこかで逃げ、弱さがあるような気もするが、その弱さも含めて、が生きるということである、という次元で。