汚い自分の字で書いても、池田晶子さんの文を写すとその文に現れるのは池田さんの精神であり魂である。魂の気配、のようなものかもしれない。
この書写という行為、これはいわば魂とまみえる行為、なのかもしれない。
行きながら死んだ人のことを考えるということは、いわば生死の境を飛び越える行為でもある。そしてこの愉しみはもしかすると死んでからも続くのかもしれない(死んだ人が死んだ人を思い出す?)。
ガタマー氏の項で池田さんの言葉を読んで思う。
ガタマー氏曰く、”結局の所、最大の謎は死ぬということなのです”。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
天才、について池田さんはこう記す。
己を信じることが天を信じることだと自覚するからこそ、さらなる精進という”道”が可能になるのである。
そして”天”について、
科学と宗教のはざまで、現在のわれわれは「天」という言葉を見失っている。しかし、見失ったということは、失われたということでは必ずしもない。われわれが天を見失っても、天はわれわれを見失いはしない。
なぜなら、失われることがない、常にそこに在る、それが天であるというその意味に他ならないからである。
と述べられる(新・考えるヒント P.75)。
夏の暑さで、ヒューケラがだいぶ討ち死にしてしまっている。
今のところ、2鉢。1鉢はカイガラムシがついたような感じでこれもあぶない。
日陰に避難させたのだが、ちょっと遅かったようだ。
ラベンダーはほぼ全滅。ローズマリーも鉄板の上にいたのは駄目のようだ。
とにかく暑さに強い種類を探して、陶製の鉢で直射日光は避ける、
このような対策が必要なようだ。
昨日は38度もあった。ベランダのサンダルを履こうとしたらやけどをした。これはもうどうしようもないレベルである。