夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

心と体は別物か。

直感として心は深く自らの肉体に結び付けられているが、肉体とはまったく別のものである。
(これを大きなテーマとしているのは、人気漫画”鋼の錬金術師”であろう。26巻をコンビニで立ち読みして思った。)

肉体即ち”乗り物としての”肉体の変化と、心の変化は同期していない。別ものだから当然であろうが、ずれるものなのだろう。

そこを称して池田晶子さんは、それではいっそ”肉体とは私である”といってはどうだろう、とおっしゃったわけだが、これはむしろ”肉体のオトロエに私は納得できない”というある意味自然なおののきを鎮めるための有用な心の持ち方を示す池田さん一流の一喝、とみてよろしかろう、とおもう。

いずれにしても、この世では肉体と精神は他の何者よりも緊密に、深く結びついている別物であるということであるが、そうであればでは肉体がホロびれば、この私(の精神)はどうなるのか、誰か教えてくれ、

それが宗教というものを人間が必要とする理由なのだろう。

死後のことを聞かれても決して答えなかった仏陀の死後、”死後の秘密を教えるもの”として”宗教としての”仏教が発展し、そしてイエスは人の魂の自然なありかたを直感して、死後天国に行けるよう、現世で善行を積むべし、とした。これはいわばわかる人にはわかるような仕組みを持った方便であったと思うのだが、”誰にでもわかりやすく、誰でもそれに依って立ちたくなる、という意味ではある意味でき過ぎた、出来すぎたというのはその方便の作者が考える以上に長期に人間全体に影響し、そのなかで変容もまたあった、という意味で、最後の、”禁断の”方便であったようにも思う。

そのほかの似た形での方便(これは仏陀が行ったとはいえないが)偶像の崇拝を禁じた仏教に於ける仏像、仏画であろう。この事実を知ってから、仏像という制限の中で、自分を最大限に表現しようとした仏師たちの試みを、楽しく見て,感じることができるようになった。仏師とは仏教の方便をいわば一番体感し、体現している存在である、とも言えるだろう。

しかしまあ、肉体と精神が別物であう、と深く感じ入ったあと、ではこの乗り物たる肉体をできればできるだけ良い状態で維持したいものだ、という思いも又、ある意味自然であろう。池田さんが引用されたところによれば、”たべるために生きるのではなく、生きるために食べる”の食べるの部分への留意だ。

それが過度になっては滑稽だが、それはあってもいいものだと、思う。

新・考えるヒント

新・考えるヒント

いずれにせよ、肉体がホロびればどうなるか、教えてくれー!!という魂には”宗教”、自ら考えるものには”哲学”が必要、ということになろう。哲学、といってもガクモンとしての、では無く、端的に”考える”という姿を持つもののことであろうが。そういう意味では”宗教”と”哲学”は女神の二つの顔、というものであろうか。いや、二口女の二つの顔、といったような関係かもしれない。

そしてたぶん、そのときに髪の毛に隠れたほうの口にあたるのは、”哲学”のほうに違いない。