昨日は松本元大臣について考えた。
なにか後味の悪さが残った。
なんだろうこれは。傲慢な松本氏を批判しているようで、結局は自分が高所から松本氏を見下している、政治家を見下しているからではないか。
マスコミが政治家を批判するのを見て思うこと。”では批判してるアンタはできるのか”。批判とはなにか。マスコミは生きるため、”飯を喰う”ため、露悪的に批判することが求められる職業だ。所詮読んでもらわないとおまんまの食い上げだ。そんなところを池田晶子さんは、マスコミとは所詮のぞきの親玉だ、と喝破した。心性下劣ではないか、という反省があなたたちにはあるのか。
JR事故の時、宴会をしていたJR人を非難する新聞人に対し、”そのとき貴方はなにを食べた?”と聞くのである。自分のことを棚にあげる、ということの邪悪さ、ずるさを、池田さんは見逃さない。
自分はでは同じような”批評のずるさ”の中にいるのではないか。確かに松本氏は、”言葉の荒い、九州人”である前に、マウンティングを生きるための手段とすることが骨の髄までしみこんだ筋金入りの政治屋家系の末裔ではあろう。そして、人はそのような”この後に及んで、自分のPOSITION作りを最優先課題とするような人物”を本能的に嫌悪して、罷免したのであろう。そんな人物を全体的に嫌悪できる日本のシステム、これは結構したたかなものかも知れない、と思う。
だが、それはそれとして、どちらかというと”脇の甘い””格好の獲物”に対し、批判をするということ、これは一体どうなのか。
「いきなりはじめる浄土真宗」という本を読んだ。
内田樹先生と、釈徹宗師の宗教をめぐるインターネット交換書簡集である。
P.25に「成人の神」という概念が書かれている。
”成人というのは、かりにこの社会で悪がなされ、義人が不義に苦しんでいても、そのことを「神を責める」という発想で片づけることを自制する人のことです。
神さまには神さまの仕事があり、人間には人間の仕事がある。神様は世界を創造した。創造された世界を「住むに値する場所」に造り変えてゆくのは人間の仕事である。だから「人間が人間に対して犯した罪」は人間だけがそれを贖うことができるのであって、神が人間に代わって贖うことはできない。そういうふうに考えることができる人間が「成人」である。”
レヴィナスの教えとして、内田氏が提示する考えである。
これを読んで、卑近な例として、”大家と下宿人”を思った。人の家に金を払って住んでいる下宿人は、所詮自分の住んでいる場所は自分のものではない、と心の底から思っているから、所詮人のもの、自分は出来るだけそこから利益を引き出さねば、と思っているから、下宿を綺麗に保とうとはしない。大家は下宿人のその気持ちを知っているから、敷金などで”アンタの本音はようわかってんで。汚のうしてもええけど、その分敷金かえってこーへんで”ということで、対応をする。
幼児の神、神が全知全能ですべてを取り仕切るところが、この下宿人と大家の関係だ。それに対し、成人の神の国の住人は、住む場所を与えてもらったら、あとはその場所を出来るだけ綺麗にして、自分が住むのに気持ちの良い場所に自らの責任でやろうとするだろう。どちらが大人な態度か。それは明らかであるが、それはしかし全ての人がそうなることは難しい。
レヴィナスの言う宗教(ユダヤ教)が、ユダヤ人を後者のように考えることが当たり前だと思う集団を作るためのものだとしたら、何千年も自らの土地をもたず、”大家に家を貸してもらい続ける”集団としてのユダヤ人を律するものとして機能させることを目的としているのであれば、それは見事に機能するであろう。
そして、いまたまさかこの日本という国に住んで、日本人をやっているこの僕が、松本氏を批判することが出来るとするなら、下宿人ではなく、いや、下宿人ではありながら、自ら選び取った責務として下宿の維持管理をすることが義務であると感じるものとして、「ひとごと」ではなく、自分のこととして、意見する、ということしかないであろう。
- 作者: 内田樹/釈徹宗
- 出版社/メーカー: 本願寺出版社
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