夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

GWに考えること。

今年のGWは9連休、と思っていたら、葬儀のため2日間東京へゆくこととなり、連絡等で計3日間がつぶれた形になった。とはいっても基本は休みなので、新幹線の中では本をガンガンよむべと思い絵本x2、文庫x2前日BOOK OFFで購入した袋そのままに持ち込むんだが、プラトン”饗宴”で早くもうとうと、モリマリさんの”マリアの空想旅行”が今ひとつ頭にはいらない。これは葬儀の連絡を海外に上手く伝えられていないか、との気がかりの所為で、やはり別のことを考えていては本は読めない。あきらめる、という明確な思いもなく船を漕いでいると東京に到着。大雨であった。

しかしながら、絵本というのは結構気分転換によい。なにより短い。しかし1枚の絵で結構時間がつぶれる(=そういうのが気に入った本なわけだが)。購入はやはり絵に対する嗜好だけで決めており、古典は好きなものは多いがたまに読めない本もある。基本的に顔がしっかりかけていない絵は駄目だ。幼児体型系もあまり好きではない。動物ものは大体OK、ただし動物はリアル、かつできればしゃべってもらいたい。幻獣系はOK,ただしこれもビジュアル重視だ。

まとめてみるとこのような嗜好があるようだ。結構気ままに読んでいるようでもこうしてみると傾向が決まっている。そこから敢えて外れるものを選ぶのも楽しいのだが。

やまなしもぎ、は太田大八の絵が素晴らしい。山椒魚のような、蛙のような沼の主もすばらしい。変にふっくらしていない登場人物も素敵だ。日本の民話だが、世界に共通の要素に溢れている。例えば”ポーランドのむかしばなし”(福音社刊 1966年)に含まれている”風のおおかみ”。これもやはり3人の息子(こちらは王子だが)が出てくる。上の2人はわがままでいやな男、末っ子は素直であるところは共通だ。なぜに2人ではなく4人でもないのかはよくわからないが、わからないけどなんとなく納得させるものがあるのが受け継がれてゆく理由だろう。”風のおおかみ”は普段嫌われ役でしかないおおかみがりりしい役で出てくるのが良い。動物園で駆け回る若いおおかみたちは、卑しさとは無縁に見えた。

犬派、猫派というが、どちらも好きだ。ライオンは猫科であるが、雄ライオンの硬い感じは犬とも通じる気がする。トラとライオン、ではどうしても同じ猫科、というよりは離れた存在であるように感じる。なんとなく顔の大きさとあごのあたりの硬直性のためであるように思うが。

ライオン、といえばグノーシスでの偽りの神、デミウルゴスを思い出す。人身獅子面、ライオン丸のような印象だが。そういえばナルニア国に出てくるアスラン、にはこのデミウルゴスのイメージは入っているのであろうか?

なぜグノーシス派が正教会からあれほど異端として弾圧されてきたのか、と考えていたが、今の自分としての結論は、自らが神の一部であると見なす思想のほうが、自らを神の僕として位置付ける思想よりも本質的に魅力的な所為であろう、と現在は考えている。教会として成立しその中にいるものとしては、自らの組織を守るために、明らかに放っておけば信者を取られてしまう思想を根絶やしにする、信者を殺す、しか手がなかったのであろう、と考えている。

異端としてグノーシス派を駆り立て駆逐したものは、確かに相手の思想を明確に掴んでおり、その魅力とそれゆえの危険性を知っていた。そしてその魅力ゆえにより憎んだのであろう。自らの存在を根底から脅かすものとして。

自らが神の一部である、と見なす思想は、仏教に通じる。汎神論、とも親和性が高い。ハドリアヌス帝の時代に発生していたグノーシス派であるが、そのときは今の正教会派もまた確固たる地位を固める前であったろう。そんななかで存在する為に相手をつぶす。邪教だ、悪魔信仰だ、という言葉の裏にはそのような心境があったのではないか、と感じているのである。

もちろん成立期のキリスト教自身も、多数の殉教者を出している。宗教とは命がけで勝ち取るもの、というよりは、結果として命がけとなってしまうもの、という厳しさもまた、忘れてはならないだろう。

饗宴 (新潮文庫 (フ-8-2))

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マリアの空想旅行 (ちくま文庫)

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やまなしもぎ (日本傑作絵本シリーズ)

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おばけのラーバン (世界のほんやくえほん (11))

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