時、時間について書かれた箇所でまた、
ひっかかっている。
ひっかかる、というか、読み飛ばせない、という感じか。
現在には、過去と未来が含まれ、そしてそれは”永遠”と呼ばれる。
遠い過去と近い過去と、遠い未来とは無い、あるいは”現在にある”。
時、はない。
まあ、普通に考えれば素っ頓狂なこのような物言いが、大拙やエックハルトや
そのことがつまり、”悟り”といわれる状態である、とさえ言われている。
そんなに簡単でいいのだうか。
万物は流転したり、一は全であったり、多様性とは錯覚であったり。
これまた”論理的理解”の極北にあるような気がする”絶対真理”だ。
そんな簡単でいいのだろうか。
いいかもしれないなあ、と思っている。
なんとなく、そう思っていると、気分がいい、
という感覚からの心持ちのようなのだが。
神と被造物
エックハルトは、神はその源初において無というほかはないと述べる。この状態で神は安らぐことがない。神からロゴス(言葉)が発し、被造物が創造されることによってはじめて神は被造物において自分自身を存在として認識する。
この時の被造物に対する神は唯一の存在であり、それに対する被造物は無に過ぎない。被造物は神に生み出されることによって存在を持つのであって、被造物それ自体ではまだまったく持っていない。被造物はそれ自体では存在すらできない純粋な無である。
神は生むもの、被造物は生みだされたもの。この両者はアナロギア関係にある。アナロギア関係は次のようにたとえられる。「健康な尿」という言葉があるが、尿それ自体が健康であるということはない。「健康な生物」がそれを生み出したから尿が健康だと言われるのである。被造物における「善き者」などもそれ自体が善いのではなく、「善性」がそれを生み出したから善いと言われる。神がそれを生み出したから被造物は善き者であることができ、知性を持つことができ、生きることができ、存在することができる。だから被造物において絶対的に義なるものはありえない。善い意志を持とうとする被造物の側からの努力もエックハルトにとっては空しい試みである。では、被造物にできる最高のこととは何か。それは無に徹することだとエックハルトは言う。無のうちには最大の受容性がある。「あれ」「これ」といった特定の存在が消え去る純粋な無の中にこそ純粋な存在たる神が受容される。「我の無」すなわち「神の有」。神は充溢した存在そのものであるからその本性からして無に存在を注ぎ込まずにいられない。神は被造物と気まぐれな関係をもつのではなく、本質的に被造物と関わっている。神はその本性からして私(被造物)を愛することをやめることができないという。
無になることの重要さをエックハルトは繰り返し説く。板の上に何かが書き込んであるとして、そこにいかに高貴なことが書き込まれていようとも、その上に更に書くことはできない。神が最高の仕方で書くには何も書かれていない板が最適であるという。極限の無になることで自分を消し去ったとき、内面における神の力が発現し、被造物の内にありながら創造の以前より存在する魂の火花が働き、魂の根底に神の子の誕生(神の子としての転生)が起こる。
しかし人が神の子になるというこの思想は教会にとっては非常に危険なものであった。そもそも神の子はイエスただ一人でなければならないし、個人がそのまま神に触れうるとすれば教会や聖職者といった神と人との仲介は不要になってしまう。
さて、このWIKIPEDIA にも記載があるが、そもそも教会の一員という立場で、人と神の一致を説くことは、あるいみ仕事、職責、生きるための手段でもある教会というものが不要となってしまうため、異端、として粛清抹消されることは見えているだろう。
同様にグノーシス主義も、人の中に本来の神の要素があるとしたため、同様に教会から抹消されているからである。
教会がその存在を否定されるために異端として粛清することは、まあわかる。
例えは変だが、日々もちあるく携帯の機能で撮影ができれば、単体の機能しか持たないカメラが駆逐され、その存在感を減らすように。
少々飛躍するが、いわゆるAIが現在人類が実施している機能を補完代替することにより、人類のすべきことは”生老病死”の一部としての”生”をただ楽しむ存在として、数百年、千年単位ではたぶんとても長命化した少数の存在となってゆくように。
グノーシス主義を、マイスター・エックハルトを、教会がそのタイミングで”その時生きている教会構成員にとっては”殲滅できたとしても、
その思想は、こうして大拙に、正しく見いだされている。
引用のWIKIPEDIAの最終部分で、記載者はこう言っている。
しかし人が神の子になるというこの思想は教会にとっては非常に危険なものであった。そもそも神の子はイエスただ一人でなければならないし、個人がそのまま神に触れうるとすれば教会や聖職者といった神と人との仲介は不要になってしまう。
そうなのだ。自分たちがお役御免だから、異端として抹殺する。
しかし、
その思想はどうなのか。
どのように位置づけ、評価するのか。
評価は行えない、というか行えば”たぶんわれわれは存在意義をなくす”。
として抹殺した事実こそ、この思想のすくなくとも本当らしさを示すものではないか。
そう感じる。
同じくWIKIPEDIAでアウグスティヌスの項も読んだ。エックハルトは3世紀に生きたこの聖職者の思想に影響を受けたという。
アウグスティヌスの時間意識は、”神は「永遠の現在」の中にあり、時間というのは被造物世界に固有のものである”というものだったという。
被造物、という考え方は、ほぼ同時代のプロティノスの「流出説」に影響を受けたもののようだ。「万物は一者(完全なる一者 to hen ( ト・ヘン))から流出したもの」。
高度純粋な世界から、低次で物質的なこの世界の、被造物としての流出。これの逆を行うことで、高次世界への帰還ができるとプロティノスは考えたようだ。
これはグノーシス神話の骨格とほぼ同じ気がする(プロティノスはグノーシス主義を批判したとのことだが、この理由は個人的にはまだ理解できていない。なんとなく”自分の思想を横取りするな”ということのような気もするが=プロティノスさん、すみません)。
大拙が引用しているアウグスティヌスの時間に関する部分を見てみる。
(引用ですが、個人的に読みやすくしたくて、段落等は変えています)
では時とは何か?
もし誰も私に訊ねなければ、私はそれを知っている。
でも、もし質問者に説明しようとすると、私は知ってはいない。
しかし、私は次のことは自信をもって断言できる。
すなわち、もし何も過ぎ去ることがなければ、過ぎ去った時などはないことになろう。
そしてもし、何もののやって来ないならば、未来などはないことになろう。
そしてもし、今何も存在しないならば、現在もないということになろう。
では、過去も、もはやなく、未来もまだ来ていないなら、過去と未来のこれら二つの時はどういうことになるのか?
しかし現在という時は、もしそれが常に今あるままに留まり、決して過去に移行することがないならば、全くそれは時ではなく、永遠であろう。
もし現在という時が時ではないのに、ひとえに過去に移行するからというだけで、存在を獲得するならば、どうしてわれわれは現在もあるということができるであろうか?
もしそうならば、現在がある理由は、現在が現在でなくなるからだということになろう。
換言すれば、現在が存在しなくなるという差し迫った状態によることなしに、われわれは時が存在するなどということをまともに言うことはできないのである。
鈴木大拙 神秘主義 P.105 聖アウグスティヌス「告白」11章14節
いや、読んでいて少々というかだいぶこんがらがるが、そもそも冒頭で聖アウグスティヌスは言っている。”でももし質問者に説明しようとすると、私は知ってはいない”。
これは、言葉、というもの(言葉とはなにか、ということも大拙はこのあと考えているが)で時や永遠や神を捉え表現しようとすることのむつかしさを言っているのだろう。
ソクラテス、プラトン、プロティノス、グノーシス主義、聖アウグスティヌス、エックハルト、鈴木大拙。
脈々とつながる思考の流れを感じるところである。