池田晶子さんは自らの著作群を評して、”どこをどう切っても金太郎飴のように同じことを述べている”とおっしゃっていたと記憶する。
これは全く卑下ではない。
高らかで誇らかなる宣言である。
”いつも真実が私の口をとおして表出されている”。
鈴木大拙のこの本でも同様の感想を抱く。
どこをどう切り取っても、どこから読んでも、ともすれば大拙が書いたところ以外の
解説文の中にも、
真実が真実として、在る。
宇宙自体の自己表現への欲望、自然自体の自己表現への欲望を共有しているからこそ、
われわれは猫をはじめとする動物にも、植物にも、鉱物にも、自らを見出し、また自らのうちに動物を、植物を、鉱物を見出すことができるのだ。それが「輪廻」への根拠であり、「輪廻」の現実なのだ。
「如来蔵」としての「心」が創造への欲望に、渇愛に、「慈悲」に満ちる。そこから森羅万象あらゆるもが産出されていく・・・・・。
本書の位置づけをこの解説の中で安藤礼二は続けてこう位置づけている。
”師たちから引き継いだ思想の宗教的な完成のみならず哲学的な完成を示している。
そして、それは日本という固有の問題を超えて、世界という普遍の問題の前に大拙を立たせることになった”
同上
日本という固有の問題。
世界という普遍の問題。
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日本という固有の問題、に先立つ”つまずき”はなんだろうか。
自分はたいしたことがないと思わねばならないと思うバイアス
烏滸がましい
あまりにも尊大だ
誇大妄想(場合によってはここに“狂”がつく)
→だから悪いことはいわない、そんな考えはやめておけ。
そもそももとから宗教的意識の少ない/無い日本人の中で”私は神の一部であり、全であり、一である”ということは、
たぶん生まれついてキリスト教やイスラム教の家族に生まれる人々とはまた違う感想をもつものだろう。
たとえば上記のような。
だが、言ってしまえば、これは自己保全を図るエゴの”自己収縮”である。
世界の前に、日本の前に、”個人としての卑近な問題”の前に私は/皆さんは/我々は
立つ。
神の一部であり、一部は一であり、全でもあるということは、
別にわたしがあの”白髪の雲の上の杖をもちロープを羽織る存在と
同じであり、すべてを意のままにできると思う”ことではない。
まったくちがう。
ただあることで、あることの一部であり、全である、ということだけなのだ。
有と無の境界のないこの森羅万象の中で、ただ在ること。
境界はないので、彼我はない。
濃淡の差、ありかたの差。そのときの“差”は違いではなく、
おんなじだけどちょっと濃い、薄い、位。
といったレベルの話になるのだろうか。
個人、日本、世界、そして森羅万象。
そこにある問題の前に、すべからく”存在”は、
対峙している。
?なんのために?
神の遊戯のため、というのは、
果たして本当だろうか。真実なのだろうか。