言葉が人間の発明(ことさら発明しようとしたわけではなく、発生した、というべきでしょうが)であり、
もう一つの人間の発明(「2大”発明したと思われてないが大きな”発明」、といってもいいかもしれません)は
時
となるのでしょうが、
これを言葉で表すことは、大変に難しいようです。
難しいというのは、”そもそもずばりではない””様々な意味があり、言葉では尽くせない、あるいは誤解を生む””人により解釈、受け取りが全然変わってしまう”
という感じですね。
時、に肉薄?する方法としていつもの(笑)鈴木大拙の「神秘主義」にエックハルトの
例がありました。(P.106)
一と二の間に生を享けている人間を観察することであろう。
その一とは永遠であり、これは永遠に単独で多様性をもたぬ。
その二とは時であり、これは絶えず移り変わりつつあり、
かつ、多岐に分化する傾向をもつ。
大拙はエックハルトの英訳版、一九二四年にロンドンのジョン・M・ワトキンス出版社によって発行されたC・ド・B・エヴァンスの物を参照した、とあります。
(本考察は134ページ)
エックハルトや大拙の考え方によると、究極的には上記の二は一に含まれることになるのでしょうが、そのことに到達する前に、時のことを考える必要があり、その為にも一と二の間を”悩みつつ””やむにやまれず””意図することなく気が付けばただいた”人間を観察せよ、ということなのでしょう。
そもそも”生まれた意味”はたぶんありません。
ここでいう”意味”も難しい。
自分で、自分にとっての意味、ということだと、思うことはできそうです。
ですが、真の意味での”意味”は、たぶん無い。
では、意味とはなにか。
これも考え出すときりがなさそうです。
ともあれ、”時”に肉薄するこの考え方に沿って、エックハルトが「無所得」と題するもうひとつの説教で続けていいます。
・・・・それゆえ、私が私自身の最初の因(もと)である。つまり、私の永遠の存在と、私の暫時の存在の双方の因なのだ。これを目ざして私は生まれたので、私の生誕が永遠であるお陰で、私は決して死ぬことはないであろう。私が永遠にこのようなあり方を(原文”ありかたを”の上に強調点あり)今日までしてきた(原文”してきた”の上に強調点あり)のも、今こうして現に在る(原文”在る”の上に強調点あり)のも、また永遠にこのようなあり方を続けるであろうことも(原文”このようなあり方を続けるであろう”の上に強調点あり)みなこの永遠の誕生の本質によるのである。
どうでしょうか。
最近わたくし、この”エックハルト節”ともいうべき記述に接すると、
すこし酩酊、というかクラクラ、というか、
あるいは”めくるめく”とでもいうのか
まあよくわかりませんが、ふらつく感じがあります。
池田晶子さんが”リマーク”の中で、後ろ頭から真実に水没する、という感じの
記載をされていた気がしますが(原文また探します)、
それはもしかしてこのような感じなのでしょうか。
濃厚な真実濃度を持つ考えに接し酩酊する。
まあ、”私”が”真実”と感じるだけなのですが。。
では、”私とはだれか”。
往って、還る前に、悪酔いしそうです。。。
- 作者:鈴木 大拙
- 発売日: 2020/05/16
- メディア: 文庫