夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

睦田真志氏の悟りと解脱。

睦田氏の本、”死と生きる”を読んでいて、氏が”悟り”と"解脱”について自ら納得し、書いた文章に非常に打たれるものがあり、先日図書館で、受験生、学生の皆さんに混じって、ノートに書き写した。

書くことで理解しやすくなる、ということを先日書いた。読むときはどうしても読み飛ばしが発生するのだが、書くとなると1度は必ずすべての言葉に接しなければならない。南方熊楠が図鑑を書き写すとき、内容は熊楠の脳にどんどんインストールされたのであろう。脳か?いや魂かもしれないが。

自分に取って、睦田氏の理解は非常に重要に感じた。それは獄中でいわば自らに100%向き合うことで初めて至る境地であるような気がした。この境地には普通の生活ではなかなか至れないな、そうも感じた。

本ブログでも、その内容を書き写しておきたい、という思いがやってきた。睦田氏の本に接する機会の無い方が、もしこのブログに来て頂けたら、是非読んでもらいたいな、と思ったからである。

ということで、以下引用させて頂きます。

死と生きる 獄中哲学対話 P.38より引用

”「俺の生命は俺ではなく、俺の体も俺ではない。俺は俺という考えそのものだ。俺そのものが真実(イデア)であり、皆、同じ一つの存在なんだ」そう分かった時、私の孤独は孤独感でしかなく、私が感じていた苦しみも、「苦しいという思い」でしかない事がわかり、その時から、私が思うことによってある、私自身を取り戻せたような思いがして、初めて最初からそうであった自分の「自由」を知ったのです。

「私の心の変化」とその疑問

"池田様はコラムの中で、御自身の「死」について考えたきっかけは、「自分が生きて存在しているという不思議」からと書いておいででしたが、私のきっかけというか動因となったのは、「孤独」でした。正確に言えば「孤独感」です。

信じることと知ること

今本当にあるのは、「思う自分」をあると思う考えだ。そして、その「考え」自体にある全ての存在への判断基準は、「在るも無いも無い生」によってはあり得なく、それ自体として「正、否」があり、それは生まれたのでもないのだから、死にもしない。

自分の周りの全ての事、全存在は自分が思うことによってのみ「正、否」が決められる(=我、思うゆえに我あり)。自分が思う事によってのみ、宇宙も自然も世界も国も社会も家族も宗教も孤独も、「在る」と認められる。
自分が思えない限りは、知らない限りは、それはどこかにあっても、自分には在り得ない。つまり生きている間は絶対に知り得ない自己の「死」は存在し得ないし、存在しない「死」があることによって、「在る」とされる「生」は在るも無いも「ない」。”