夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

蝋燭。高島野十郎。

池田晶子さんの文章を読んでいて、いろいろな箇所に膝を打つ思いを持つことが多いのだが、

これは正確な引用ではないのだが、学者とは自分の学説を掲げて人生に臨む者である、というような文章があった。

池田さんの場合、本来哲学学者と呼ぶべき、人の哲学を紹介する人が哲学者と呼ばれ教育に携わっていることへの違和感から、自らの職業を明確に示す言葉に苦労され、いわく文筆家であったり、哲学の巫女であったり、と悩まれたのが、物事に正確であろうとした姿を示す一つの例であろうと思う。僕から言えば、たとえば人生とは、生とは、死とは、ということに全身全霊でもって自然に取り組み、それを2000年先の人類に向かって語る、という姿勢は、たとえば釈迦、たとえばソクラテス、といった四聖と呼ばれる人たちと何ら変わることもなく、そしてご本人も”姿勢としては”同じである、と思ってらっしゃったと感じる。そしてその文書を読む僕らは、たとえばソクラテス、たとえば釈迦やイエスの言葉に接するとき、”あ、これは池田さんが書いていたあれやな!”と感じることがすくなくとも昨日もあったりした。

そういう意味で、真の学者とは、なんとか学学者がひとつ”学”を抜いて示されることで、本物と偽者の(偽者、はわざとではないにしろ)区別があいまいである、ということをおっしゃりたかったのだ、という箇所に膝をいつものとおりポンポン叩いていたわけであるが、今回言いたいことは、違う箇所への膝打ちなのである。

掲げる、である。この言葉、眼の前に明かりを持って先を照らし、進む姿を感じる。
人間とは光である、とガタマー氏は(無理やり?)池田さんに聞きだされた。世界霊魂、のウィトゲンシュタイン、宇宙霊、という言葉を用いた中村天風、汎神論や、石であっても分子レベルで見るのなら生命との区別は実はあわいの中にある、といった茂木氏の事も頭をよぎる。

つまり、人間の生命というものを、ある特定期間火が付いて燃える蝋燭である、という風に感じるのである。そことの連携感をこの”掲げる”という言葉との連想から最近ずっと持っている。

前置きが長くなった。高島野十郎。一般にはそれほど有名ではない”写実”画家の画集と評伝2本を読んで、それも同時期に一気に読んで、写実画、というもの、というか写実しようとする姿勢に対し、眼から文字通りぼろぼろうろこが落ちる思いがした。

ここで個人的な思い入れを少し語らせていただくことを許して頂きたい。僕は絵を描く、ということが言ってしまえば”生の理由”と腹の中で思っているのだな、と他人事のように思うことがある。描く機会は今は少ないのだが、自分の中で”チェリッシュする”、変な表現だが、まあ心に大切に秘める、というのか、触ると変質する大切な核のような思いとして持っている人間であり、そうであることに変な表現であるが満足しているところがある。絵が上手いわけではないが、絵を描くこと、絵を見ること、絵が好きなことが本質的に気に入っているとでもいうのか。

であるからして、自ら絵、というか視覚を通して物事を理解しようとする性向、視覚的というのか、そのようなものが強い、と思ってきたし、今も思っている。池田さんは自らを評して、根っから論理的な性格だ、とおっしゃっていたと記憶するが、それを読んで(別に一緒ではなくともかまわないのだが(笑))ああ、僕とはちがうわい、とちょっとなぜか残念な気持ちがして、自分は視覚的で論理的とは程遠い、と思った。しかし、だから論理的とはどのようなものか、という知りたい思いが彼女の著作を読ませている部分もあるのだが。つまり”論理的ってかっこいい!しびれるなあ!!”である。

そう思って”論理的世界”を楽しく逍遥して来たのだが、この高島野十郎に接することで、実は視覚的であること、論理的であること、とそもそも区別することはないのだなあ、という思いを持った。

画家さん、と彼は呼ばれる。あたかも”画家”という役割を体現し、神に役割つけられたように。そして本人も自然にそのことをそのこととして”している”。絵を描く=見る。見ることが真に見ることになるまで見続ける。そしてそれを絵に描く。見ることと描くことはそこではもう区別なぞない。描いたものを画室に掲げる。また見る。何十年もへたすれば見ている。

職業として絵を描く人間が、絵を所望されて断り、それでも自らの生命が程なく消えるという予感を持つ85歳を超えて尚、まだ絵を手放せず、ちょっとした気の迷いでいいや、らしきものを言ってしまって、所望者がこの機会を逃すものかとの思いで、作者の思いもおもんぱかりつつそれでも尚、ひっさらうようにして絵を持ってアトリエを去ろうとして、ふと後ろを振り向くと画家は画室を出て眼に涙を溜めてその姿を見ている。たぶん呆然と、というよりもっと自然な呆然で。

うらやましい、のか、壮絶、なのか、そうありたい、なのか、わからない思いがやってきた。

前のめりに、倒れこむように、文字通り全身で、生涯をかけて絵に埋没した、同化した、ひとつの生命の炎の姿がある。

プロの絵描きである画家は、生涯何十枚もの蝋燭の絵を描き、お世話になった縁のあった人々にただで手渡した。
人はそれを手放すのを拒み、多くは仏壇などに灯明がわりに掲げ続けているという。

絵にはその履歴はいらない、というのは理想で、そのかかれた姿、履歴があって鈍重な僕らはやっと気が付くことが多い。蝋燭の絵を手にした人はそれなくして本質を感じていたのだ。

高島野十郎画集―作品と遺稿

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過激な隠遁―高島野十郎評伝

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野十郎の炎

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