常識は、一般に、人の心事について、遠慮がちなものだ。
小林秀雄 考えるヒント2 文春ウェブ文庫 5%
差、という言葉はドクサがある。
差があることは、良いことである、悪いことである、ということを思ってしまう、というドクサである。
そのことに気づいて、
差は、JUST差である、と改めて、しみじみと、考えるべきだろう。
昼と夜の差。なんだか昼の方がいい感じだが、夜がないと(通常は)眠れない。
男と女の差。ジェンダーという意味ではこれもドクサが渦巻く「差」であるが、これもまあ、そういうものだともいえる。
背が高い、低い。高いといいようだが、これもどうにもならない。
頭がいい、悪い。いいほうがいいと言われるが、しかし「いい」とはそもそも比較している。頭でものを考えることが出来る、というだけでいいのかもしれない。
ありのままの「手持ち」で、その「手持ち」をよく生かすこと、比較ではなく、「持っているものに自足する」こと。
持っていない、と思っていては、どこかエゴがうずまく精神で生きることになる。
高野野十郎は、水道も電気もない小屋が、静かでいい、と過ごし、月を見て月や蝋燭を描いた。東大を首席で卒業した画家である。
月は観音様が出てくる穴だといったという。
月と一対一で、とことん対峙しないと出てこない言葉だろう。
人は、頭脳に、差がある。差があることをいうと、いけない、という雰囲気があるが、それは「差があるが、劣後であるあなたはだめだ」という意味がドクサとしてもれなく言われた相手に感受される、あるいは感受されるかもしれない、という忖度からであろう。
差がある。差があってもいい。そもそも比較することに意味がない。
持っている能力をいかしきるのみ。
こう、思い至ることのむつかしさを、思う。
(難しいですね。。。)