文章で読むことと、映像で見ることの共通性と違いを感じた。
映像、というものが、文字や文章と比べてどれだけ新しいのかをまず感じた。
動かない画像、という意味では、絵がある。動く前は、絵で情報を伝えようということがなされてきた。
絵と文字の違いといえば、まず文字(言語)はその言葉を知らなければ、その内容に全くアクセスできないが、絵は基本的に見れば誰でもなにがしかの情報を得ることが出来ることだろう。
例えば、私が最近よく絵の題材にしているギリシャ神話。壺絵といわれるものを一瞬に見ただけで、なにがしかの情報を得て、なにがしかの自身の内部の反応がある。それをみて、私のうちでなにかが喚起されるわけである。
一枚絵であれば、情報は限定されるのだが、絵物語を経て漫画になれば、その含む情報はけた違いに多くなる。時に、文章を凌駕する部分もあろう。描きこまれた背景や、登場人物の表情からは、文章では伝えきれない情報をも、表すことができる(一方で文章におけるイメージの固定化、という面もあるが)。
初めて映像がうまれて、100年ちょっとなのだろう。その100年の間に2つの世界大戦が含まれ、かずかずの各地域での戦争や紛争、政治的な変化やテロ、犯罪、科学の発展、文化の栄枯盛衰、などが起きている。
なんとなくいろいろあるだろう、と思っていたことが、具体的な映像であれば、身近な、あるいは「あの場所にいたのはあるいは私であったのかもしれない」という、自分が人類の一部である、という感覚(あるいはすべてのうちのいちぶである、という感覚)から飛来する感想もまた、浮かんでくるのだ。
ナチスが勃興したときのドイツに、たまたま生まれていたのなら。そしてその時自身がユダヤ人であったのなら。
運命、というものともちがう、なぜ今私はここにいるのか、というような、安堵ともちがう、焦燥感ともちがう、たぶん「たまたま」そして「あるがまま」であるという感覚。
科学により、原子爆弾が”できてしまう”。毒ガスが、”できてしまう”。
夫が毒ガスを作ることに抗議して、毒ガス完成の式典の夜、毒をあおり自害して抗議する妻がいた。
そうしたことが、例えば文章であれば、忘却の彼方に既にいっており、ダイレクトにそういう書物にたどり着けなければもはや知ることもない。
だが、映像であれば、その再現性、複製性の容易さから、こうしてたまたま「無料で」テレビを見ている私の目をも直撃してくるわけである。
外国の王族のことなど、神話やおとぎ話なのかと思うしかないわけであるが、ロマノフ王朝の最後の4王女、幼少時には世界にその愛らしさと美貌を称賛されて過ごしていたのに、革命により幽閉された民家の地下室で人知れず銃殺される。そして、その時の王女の思いを記す手記が、映像と共に、音声で我々に翻訳されて到達するのだ。
なんとも、なんとも言えない気持ちになる。
その時の王女の気持ち、もちろん王女ではない、無名のベトナム少女の、ナチス収容所に到着後すぐ殺害される人々の気持ちに、どこか自分がアクセスてしまう。リンクしてしまう。
映像とは、そういうものなのだ。
バーチャルリアリティという。人は眠りAIにその生をコントロールされ、あるいは自ら委ね、バーチャルで生きていると「誤認している」のがマトリクスの提示した「暗黒の未来図」であった。だが、
未来がそうなる確率は、個人的には9割だと思う。もちろん「主権は人類にある」「自ら選んだ不死である」などと人は思うものだろう。
だが、美味しい果実を動物に食べさせて、植物は世界にはびこることを戦略的に採用している。そこには「意思」ともいえないが、実は強靭な意思があるのだ。
AIもそうだろう。AIに意思はない。だが美味しい果実(ゲームに映像、バーチャルなより「楽しい」生活)を、人類が自ら開発し、AIに与えることで、結果的にAIは人類を「取り込む」ことになるだろう。
それは別にAIがやりたいわけではない。ただ、そうなるだけなのだ。
太陽が現れ、月が現れる。天動説があり、地動説がある。
結局、おんなじことだ。
世界は、なるように、なってゆく。
動くことが、存在であるのだから。
(存在、とは、なんなんでしょうね。。。)