夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

言葉から。

高野野十郎は、写実、ということを大切にした。
出来上がった絵は、自然をそのまま写したように見える。
写真と同じであるが、一つ一つ手で描いてある。

花一つを、砂一粒を人間と同物に見る事、神と見る事・・・・・

・・・・・それは洋人キリスト教者には不可能

            (高野野十郎 NOTE より)
その一つ一つが神であるところの、砂を植物を、景色を描くことは、同じ風景画のように見えても野十郎に取っては神を描く行為、一つ一つの神を丁寧に描くことにより、壮大な神の図を描く行為であった。

従って出来上がった図が、”洋人”が描く”普通”の風景画(そこに神はもしかして一人はいて、それは神の仕事の結果である自然として)ではない、数百、数千、数万の神々が集ったところを、一筆一筆描き出そうとしたものであるから、自ずから違ったものを含んでいることを感じさせたとしても不思議ではない。

人間は何時の時代にも、何時の日にも同じ事をやつて居る、寸分違ひはせぬ、凡ての事について (NOTEより)

より多くの無意識や神話を意識化することができる程、われわれの人生は、統合度の高いものとなる。

              ユング自伝2 P.141

砂の一つ一つが神である人の神話はどれほど多いことか。絵を描くことが神を寿ぐ行為と同一化している。高野の人生の統合度はいかほどのものであったろうか。その恍惚感が彼をして画を描くことを”魔業”と呼ばせたのであろう。その余りの幸福感が罪悪感を呼び起こしたのであろう。