エックハルトの思想をまずは引用する。
P.12以降。エックハルトは伝道の書の中より次の一文を引用し解釈する。
「生前、彼は神を喜ばせ、義人とせられた」。
「生前」とは一日だけのことではない。人の日もあれば神の日もある。六、七日前であろうが、六千年以上前であろうが、一日は昨日と同じぐらい現在に近い。何故か?何故なれば、すべての時は現在のこの時間の中に含まれているからである。
この箇所、未来も過去も時間という概念もない、今が永遠としてあるのみである、
今の中に過去が過去として、未来が未来として在る、含まれる、という概念と近いと感じる。
時を感じるとき、例えば1000年前といえば、遥か昔と感じる。
だが、そうか?
1000年前の人の気持ちは、今、ここの”私”の中にあるのではないか。”あれはわたしであった”。
池田さんは、言葉を2000年後の人類に対して発している、とおっしゃった。”その時人類がどうあろうとも”。
そのこころもちと、この、”大拙”が引用する”エックハルト”と果たしてなにが、どのように、違ってくるのか。
時は天の転回から由来するものであって、日はその最初の転回から始まったのだ。人の日はこの時に由来し、万物を明らかに見せてくれる自然の光から成っている。
しかしながら、神の日は昼と夜と双方を含む欠け目のない日である。
父が独り子を産みたまい、人が神の中に再び生まれる日は、人間にとって永遠の日である。
まぎれもない今この瞬間に他ならない。
(引用中、一部段落は変更している箇所があります。本文は不変)
さて、このあたり、エックハルトの解釈を聞いた”信者たち”はどう受け取ったのであろう。
混乱?理解不能?あるいは光明として感じたのであろうか。
そもそもその”信者たち”とは誰のことだろうか。
”まぎれもない今この瞬間”とエックハルトはいう。
この、”すべては今”という思想。感覚。理解。「真理」こそ大拙が”思想の””東西の””霊性の”出逢い、と称する部分の中心であろう。
時、とは人類の”発明”であるという。
果たしてよき、発明であったのか。
”エゴ”による発明ではあるだろう。
”自分が””ここで”生きている。その”事実”は”時間”の概念がないと成立しない。
”区分けされた””独立した” 自ら分かれたもの=自分。
分かれること、とは、2つの判断基準を持つことだ。
私と、他人。
自分と、自分以外。
そこには、比較が、もれなく、ついてくる。
比較の別の貌。
「苦」。
違いを苦しむ。違うことは、それを“嬉しく思う”か”悔しく思うか”。
そのどちらか。
違いを、”目撃者”として、心の”自己収縮”としてみれば、そこからは離脱できる。
それだけが”非常口”。出来事を、出来事として、”映画を見ているような視点で”見る。
このあたり、草枕で画家である主人公が、そうあろうとしている心根とも似てくる。
画を描く、という行為は、まずは対象を離れて俯瞰することが必要である。
すくなくとも”良き画”を”生む”、”良き画”が”生まれる”あるいは”降ってくる”ためには。
”普通”の”生活”、つまりエゴの中にいれば、基本違いの中に住み、そこから目撃者として離脱できず、苦しみの中に在る。
気が、付かない。なぜか?物心がついてからずっとそうだからか?
物心がつく、とは、果たして??
自分として、エデンの園から”追い立てられ、追放される”ことなのではないだろうか。
智慧の実?苦?区別?”私とあなた”、”生と死”。
ここだ。
ここのところをエックハルトは、大拙は、”東西の霊性”たちは、
見つけ、糾弾し、伝えようとしているところではないのか。
どうもこのあたりが、すべての"原初の宗教的発心”が、
”生きとし生けるもの”にすべからく、伝えようと、なった/なっている/なる ところの
POINTかもしれない。