夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

コリーとボルゾイ。池田晶子と松井冬子。

日本画家、松井冬子を特集した、美術手帳2月号を読んだ。

松井冬子、という画家のことを知ったのは何時だったか。TVかなにかだったと記憶するが、第一印象は、”このひとは日本画家ということだが、凡百の女優よりよほど存在感とインパクトのある美貌だな”というものだった。

その絵を見たというより、日本画家として紹介された彼女を知った、というレベルであったのだろう。特に眼、いわゆる”メヂカラ”というんですか、こちらの魂をグイッと覗き込んでくるような眼に深い印象を持った。

こう書いていて思いだしてきた。あれはたしか読売新聞で連載していた松任谷由美(漢字これでいいかな?)での対談だったように思う。

そんな印象を持った画家のこの特集号を手に取ったのは、現在横浜美術館で初めての大規模な個展がひらかれているからということだが、とある美術館の閲覧コーナにこの雑誌がおいてあり、パラパラとめくったことに起因する。尋常でないインパクトを感じ、いわば禁忌に触れてしまったような感覚もなかば持ちながら、翌日の早朝、魅入られるようにAMAZONの購入ボタンを押していた。既に過去号であったのである。

非常に充実した記事であると思った。個展の紹介に留まらず、坂本冬子の画業の理由と過去現在未来、というものを探ろうとする、すぐれた取り組みであると思った。画家自身へのインタビューがあるのも良い。読んでいて思った。画以外のメッセージもまた、なんと豊潤なのであろうか、と。

画をご存知の方はお分かりであろうが、これは日本画による、”メメントモリ”つまり死を想え、の系譜である。画家自身もこの語を発している。意識がある、ということだろう。

読んでいて思ったこと。それは我が池田晶子氏との共通点と違う点である。まず共通点がある。両者とも人の気持ちを”波だたせる”美貌の持ち主である点であろう。そしてそれは両者ともその”道”では大きな位置を占めており、その位置はこの美貌の故ではない、ということ。しかし、”ちょっとキレーなネーチャン(BY池田さん)”というレベルとはちょっと違うレベルである。そんな存在としての規格外感、これは両者が共に持たれたところだろう。

つまり、本職でしめる位置はおしもおされぬ位置にあるが、”美貌界(笑)”においてもただならぬ存在である、ということである。池田さんを素晴らしいと思ったのはそのご尊顔を(写真で)拝する前である、ということを僕はつらつらこのブログで書き連ねているが、なんのことはない、それはある種言い訳である。その美しさも含めての”池田晶子”なのである。ご自身も言っているではないか。”かわいかったからよくもてた”。

本当にそうだったのだろう。客観的な厳然たる事実として。

ただそういった方々の著作や画業に接するにつけ、やっかいな自問自答に常に接することになる。”お前はキレーな人なので、ファンなのではないのか。つまりは偉そうなことをいうのはそのシタゴコロを隠したいのではないのか”。

いや、池田さんのいちファンをやっていると、そんな悶々も含めファンである、という境地には慣れっこになるのだが。そのあたりは経験?豊富である。

そんな池田さんや松井さんだが(どんな?(笑))、同特集号で松井さんはロボット工学の第一人者と会談する。これがものすごく既視感があった。そう、池田さんが”2001年哲学の旅”で行った「最先端の現場での考察」とである。最先端の科学技術、池田さんは”科学教”も宗教と同じく盲信に繋がるものとして戒められているが、そのスタンスでもって行った対談三発である。幾分戦闘的に世間に発信している(前衛的ともいう)両者であるが、最先端の科学者との高度な会話は読んでいて大変変な話だが安心できる。いわば達人同士の異業種交流、の感である。物を描く、作るという意味では松井さんはより共感を持って接しているが。

又両者の共通感はそのアスリート感である。松井をモデルとして書いたスーパーリアリズム(かな?)画家である諏訪氏はいう。アスリートのような、いいヤツ、という印象です。絵のためには何時間も冬のプールで微動だにしない。戦闘的な表情になるといきいきして、食用でもないユリを食べてといえば食べかねない。そんな松井氏は、公園を美容のためでも健康のためでもなく、ただ考えるために何時間も走り、きりがないからやめる、という池田さんに共通の印象がある。要は”必要なことには我をわすれる、というか我などなくのめりこむ、同一化する。”

松井さんは自身を”盲目のボルゾイ”にたとえているという。そして池田さんといえばコリー。ご自身をコリーに喩えることはなかったかもしれないが、ひとには”よく似ているといわれます”。これは飼い主と飼い犬が似る、という別の話かもしれないが。

同じ犬。そして両種ともその気品のある(ボルゾイの場合は貴族的な、というべきか)姿が印象的な犬種である。しかしそこには大きな違いがあると考える。そこを考えるには時間が尽きた。犬好きを自任する(そしてコリーとボルゾイは両種ともとても好きな)私であるが、更なる考察はまた次回、とさせていただきます。

美術手帖 2012年 02月号

美術手帖 2012年 02月号

2001年哲学の旅―コンプリート・ガイドブック

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