夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

dog suit, cat suit.

ウィトゲンシュタインは、どこかの断章で言っていた。
<犬の振舞を見ていると、その<魂>を見ているのだ、と言いたくなる>”

池田晶子 魂を考える p.67



池田さんが、ダンディ君のことを書いた文章は、僕は大好きだ。
ラッシーが好きで、コリーを飼ったというところ、ここは掛け値なく共感するところである。

僕もラッシーが大好きであった。あれは小学校の5年生くらいであったか、関西ではラッシーの裏番組は赤塚不二夫元祖天才バカボン”であった。

実は僕は”おそ松くん”にそのころはまっていた。むろんリアルタイムではない。リバイバル出版にはまってしまい、6つ子の名前を終日唱えては悦にいる日々であった。

その私が、同じ赤塚の”バカボン”を見るのか、はたまた”ラッシー”を見るのか。子供ゴゴロになんとも重要な決意が必要な事項であった(いまだにこうして覚えているくらい)。

だが、”ラッシー”であった。そしてそれを選択し、見ている自分をなんだか誇らしく、”自分はこれほどにラッシーを”と意識しながら見ていた。

今考えるとなんとも他愛ない。しかし大げさながら、”人生は選択が必要な時がある”ということを、ラッシーとバカボンで、学んでしまったのである。

ちなみにやはり学校では圧倒的にバカボン派であった。やはり地域性もあるのだろう。共感をもってラッシーを語り合った記憶は、ない。

これもこのブログでは何度か書いているが、同じことを言い続けるのは池田さんのお教えでもあるので(これ言い訳)、またも書いてしまうが、小学校の卒業文集での”将来なりたいもの”に書いた”おおきい家に住んで大きい犬を飼う”、これではいかにも金の亡者みたいだな、と思いつつもそのままにしたのは、”おおきな家”は”ラッシー”を飼うために必要だ、と思っていたからである。

それほどまでにラッシーが飼いたかったのだ。

その後池田さんはご自身のポリシーを見事に果たし、ダンディ君の魂と2代にわたり邂逅されるわけだが、僕の場合は夢はたせず、である。

大きな家に住む、というところが上手くいっていないこともあるが、それもあるのだが、一つはやはりそれぞれの犬、そして猫にも、”魂”がある、と実感する日々だからである、といえよう。

大きな犬は多分確かに魂を感じやすい。この感じ、わかる。魂が歩いている、という感じになる。犬にしても、猫にしても、人の魂、というか、気配、オーラというものを見ているようだ。

ためしにノラ猫。変な人が多いので、きちんと逃げることを覚えてもらわなければいけないが、まあそこは置いておいて、僕はノラ猫をみると、”こころで語りかける”ことにしている。”恐くないよ”と(心で)語りかけて近寄れば、そうでなく近づくときよりも、間違いなく逃げるのが遅くなる。

野生では食べるか食べられるか、だし、ノラであれば似たようなものだ。だからなのか、必ずネコはそうなる。そういう手段ですっかり仲良くなったネコは何匹かいる。エサをやることはない。ただなでるだけ。しかし僕を見ると走ってくる。にゃあにゃあとしゃべりながらのヤツもいる。それをみると(黒猫だが)黒い魂が走ってくる、という感じをいつも受ける。

そう、縁あって、学生時代にノラを赤ん坊から育てた経験から、僕はやはり犬でも猫でも、そしてほかの動物でも、やはり魂があることを学んだのだ。ラッシーでなくとも。

だが、とやはり思う。多分あの大きさ、顔にあっては多分人より大きい。あの鼻筋。それを見ていると、見詰め合っていると、これはなんとも。たまらないであろう。別にオスでもメスでもいい。やはり、たぶん、コリーは格別であろう。わかる。


たまに河原でコリーを散歩している人に出会う。こちらはひとり身(?)だからガールズトークならぬ”飼い主トーク”は出来ないのだが、うらやましい。短命で、重たくて、病気になったら物入りで、といろいろあるけどやはりコリー、なんですよね。

機会があれば、今度は近寄って見たいものである。


コリー飼い主の方のブログを発見。かわいいなあ・・・
http://yamepi2.a-thera.jp/archives/201306-6.html