夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

魂。

魂、ということばにより表されることは、なんともモヤッとした肌触りだが、この”ハッキリしない感”ともいうべき感じが、逆に魂、ということばのもつ広がりを担保している感じがする。

人の話を聞くのは、楽しい。講演、というもの、授業、というものの本質と目的はこの楽しさにある。テーマの自らとの親和性が重要だが、なんかおもしろそうだからとりあえず聞いておくか、というスタンスのほうが、実はよき結果を得ることに繋がるのかもしれない。

昨日は昨今話題の林修氏の講演を聞く機会があった。ほぼ同世代というべき氏であるが、きちんと講義を組み立てて臨んでおられると感じた。そして明確なメッセージも。このわかりやすい炊きつけ感が、氏の人を教える、というときの技であるのだろう。

教育、というのは自己教育しかない、といったのは誰だったか。氏の講演は主に中・高生に向けた学びの基本姿勢、といったものを客観的に示し、みずからの姿勢を意識的に選び取ろう、というものであったかと思う。

世には、天才、といわれる人がいる。これは事実である。天才は努力ではなく、天与のものとして才を受けている。そのことで偉いも偉くないもない。たまたま、である。ただ、類似の外見をもつものとして、秀才、特に努力型の、というものもあり、これは努力をする、という面でこれまた天与の才を得た、という部分はあるのであろうが、人の”素直な賞賛”を得勝ちであり、そのへんがゴッチャになっているので、併せて天才も偉いという混乱がある。

鬼、を忌嫌する心性の反対に、神童を寿ぐ伝統もある。鬼、のこと、池田晶子さんの著書”魂を考える”を先週読み返してちょっとまた考えたいと思っているが、ここではおいておいて、神童、というものは多分本来の”天才”に近い意味である。自らの多数の平均を超えるもの。そういう評価の謂いである。今の言葉でいえば、”宇宙人”という奴であろうか。これは人間の形をしているがなにか別の魂が入ったものである。

ただ、神童、と見えて、その中にも当然レベルがある。”神童界”のなかのヒエラルキー(自然な)。このヒエラルキーなることば、結構”ドクサ”がひっつきやすい言葉と思われるので注意が必要だが、とにかくここでは差異、のこと。自己認識が”神童”あるいは”天才”であったものたちが集められ、みずからの”神童ヒエラルキーの中での位置”を実感するのが、いわゆる”地域一番中学”である。
関西では灘、中部では東海。東京では多分開成、なのであろうか。東京地区はよくわかっていない、或いは多数あるのだろう。女子でも類似の傾向だ。これも東京はわからないが、私見だが、関西では神戸女学院、中部では南山女子。

僕自身は灘通学圏で生まれ育ち、もちろん行ったわけではないが、そういう意味では忘れもしない小学4年生の時の塾で、”ああ、これはアタマの出来が違うワ”という強烈な認識を持った。なぜかはわからない、が今でも覚えている。持った相手は灘にいった。関西では”灘”のイントネーションは標準語とは逆だ。この”だ”にアクセントのある学校名イコールこの体験の想起に繋がる、ある意味トラウマ的体験である。

とにかく”サンスウ”がダメであった。そして幸いにも関西中学受験にはなかったが”社会”の単純な記憶が、まったくできなかった。とにかく”社会的”なものに徹底的に興味が持てなかったのである。僕にとっての中学受験は、”ナダ”と”コウベジョガクイン”のサンスウの問題を見て、絶望的なキブンで問題を”飛ばす”という行為とイコールなのであった。

魂を考える

魂を考える

えー、もうすこし上記の書物で池田さんが”ユング発見!”(でそれにつられて自分でもユング発見!)した記載を久し振りに見たので、そのことを書こうとしたが、PCの調子が悪くすこし頭が混乱してきたのでこのあたりで。

文章を書く、というということには、やはり環境・時間・キブンが大切なようだ。