夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

池田晶子さんの、間合い。

長く会社でお世話になった方が今週で業務を終了された。

会社での生活が”生きる”ことである、とはともとより思い定めているつもりはないのではあるが、長く務めているとそもそも生活=会社、という感じにどうしてもなってしまう部分はある。

池田さんがよくおっしゃる”生きるために食べる”ではなく、”食べるために(=稼ぐために)生きる”に、しらずしらず埋没している瞬間である。

生活をしながらの思いが、そうなりがちなのは、いわば”人類の初期設定”でもあろうから、そこは意識して”善く生きる”ことを希求すればよい、と思い定めてはいるのだが、性愚鈍なるが故か、どうしても埋没、してしまい、勢いなんだか元気が無くなったり、寂しかったり精神がしてしまっているのを自覚することがある。

そんなときは、云わば”こころのカンフル剤”(ここ”ビタミン剤と言おうとも思ったが、それよりも救急度が高いのに気が付き急遽言葉を変更)こと「池田さん著書紐解き」、が一番キク、わけであるが、たまたまYou-Tubeで池田さんがたぶん2003年であろうか、”14歳の哲学”が大変売れて、出版3ヶ月後ということなので、多分は2003年5-6月ではないかと思うのだが、TVにご出演されているものを見た。

”見た目が問題なのではないのは言うまでもない。でもある意味では、人間はやっぱり見た目がすべてとも言えるんだ。(中略)外面とは内面そのものじゃないか。”
P.118 14歳からの哲学 池田晶子

外面ばかり気にせず、内面を磨け、とはよく言うことだ。しかしここで振り返って見たい。人が年齢にばかり囚われていることから一回翻って池田さんは言った。”人間とは年齢である”。

この伝でいけばこうなる。”人間とは外面である。”

内面が美しいからと外面をわざと粗雑にすることは、実は品がない。外面に現れる美しさは、内面そのものであるから、外面を気にすることは内面を気にすることだ。要はここでもいつもの一言。

”善く、生きる”

これしかない。

画面にある10年前の池田さんは非常にチャーミングだ。勿論外面とは持って生まれた遺伝的要素が多い。子は親の容に似る。しかしそのしぐさ、笑い、言葉に対し真摯に正確に伝えようとすること、そもそもいやいやながら”われわれ人類のため”面倒なのに真実を伝える機会を持ってくださった。

そういうことがにじみ出る画像が、外面が、美しくないことがあるだろうか。チャーミング、とは魅惑することであるが、そのただしいい意味をもって、チャーミングでないことがあるだろうか。

あるわけがない。

果たして私は池田さんの外面にのみ魅かれているのであろうか、との問いは、そもそもの”外面の初期設定”が高すぎる池田さんに接するときにまず人が受ける第一関門である。しかし僕は自信を持っていえるようだ。

外面とは内面の謂いである。その美しい外面の池田さんを、素晴らしい、の一言以外で表すことができようか。


そもこのブログ、イチ池田ファンのつぶやきがスタートであった。
本日は初期のココロザシに立ち返った気分である。すがすがしい(笑)。ご笑納、下されば幸甚です。