池田晶子さんの著書に、そのものずばり"魂を考える”というものがあり、それを読む前は魂ということばは、そこにそのとおりあるもの、としてことさら自分の中で取り上げることは無かった。
池田さんは”魂”の語を、それまで”精神”と言っていたことではなんだか座りが悪くなって使うようになったとおっしゃる。
確かに、魂と精神、では重複部分はある程度多い気がするが、全て同一、という触感は無い。
精神、というと個人的な感じだ。いまここにいる自分が自分として生を受けてのち蓄積してきた限定的なもの。一方、魂、といえば、個人を超えた人間として今ここに生命のリレーの走者として走っている自分が、一個の細胞として地球に存在してから脈々と受け継ぎ学んできた記憶、何十億年もの原記憶、というべきものを含んでのもの、という感じがする。
そんな風に思っていると、魂、について述べた文が眼に留まるようになって来る。
ユング自伝2、P275に魂についてのユングの考えを述べた箇所がある。(””内が引用部分)
”何百年にもわたる生命の発展の間に蓄積され、(中略)ものすごい力に満ちた心的な要素”、これ(イメージ)が、”自らの中にある非空間的な世界”を満たしている。これは”心的な非自我”なのである。
”私の意識は最も遠方の空間まで見透す目のようなものである”、そして、”このような心像と並べて、私は星空の光景をおいてみたい。”
ユングはここで、心的心像と星空を対比する。人間の魂と星空を対比すると言ってもいい。
ここで思い出すのは、カントの墓碑銘だ。
私がそのことを思えば、思うだけ、
私の心を一つの尊敬の念をもって
満たすところのものが2つある。
それは、わが上なる星の輝く大空と、
わが内なる道徳法則である。
カントも又、星空に比して、”わが内なる道徳法則”を置く。道徳法則、の語感は、自らの内にある高度な自分が(発展途上である)自らを導き指導する、というものがある。これは魂、始原からの英知(=経験)である道徳法則(=潜在意識)と、精神(自らの私的な心)とが渾然一体となったもの、という感じがする。
そして更に思い出す。
池田さんも、星空を見るのが大好きで、そしてその"見透す眼”が見ていた宇宙は、実体としての宇宙というよりは、心的な宇宙でむしろあった。天体写真を睦田真志氏の獄舎に差し入れたときに、睦田氏に示そうとしたのは、そうした宇宙を共に見ましょう、ということだったに違いない。
人間、という存在は結局そういうものなのだ、というのが、先賢たちの結論であるのかもしれない。
- 作者: C.G.ユング,河合隼雄,藤縄昭,出井淑子
- 出版社/メーカー: みすず書房
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