夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

蚊に咬まれる。

「気まぐれ美術館、セザンヌの塗り残し」を引き続き読んでいる。

画家の寺田政明さんの広大な庭のことが書いてある。
(眼の中の河、P303)

広大な庭に藪蚊が発生する。
画家のアトリエは別宅だが、そこにも勿論発生している。

”「ですがね、こう、尻をパチンパチンと叩くとき体を動かすでしょうが、それが体にいいんですよ」”

ぼうふらは庭のあちこちに据えた石の蹲、水甕から発生する。

”しかし、犬だの小鳥だのは、ぼうふらがいると安心して水を飲むそうで”。

勿論この画家の庭とは到底較ぶべくも無いが、僕の家にも小さな庭がある。中古で購入したこの家の前の主が、丹精した日本式のもので、灯篭や大きめの睡蓮鉢、信楽焼の狸なども一緒に引き継いだ。

購入当時は英国式のガーデンなどにあくがれていたこともあり、庭の模様替えも考えたが、今はそのままにしてよかったと思っている。

購入初年度の昨年の夏は、この”少し大きめの睡蓮鉢”から、蚊が大量に発生した。2度目の梅雨を向かえて、思いついて熱帯魚屋でめだかを購入した。大きな魚のえさなのか、安く手に入った。これを鉢に放すと、目論見通り、ぼうふらの発生が大きく抑制された。

少し経つと、稚魚が2匹ほど水面近くを漂っているのを見つけた。ホームセンターで、”めだかがよろこぶ水草”という南米原産の水草と、睡蓮を買って水に沈めてみた。

毎朝水をやるとき、殿様ガエルが水草に座って頭を出しているようになった。鉢の底の方に住んでいたようだ。

そうはいってもやはり蚊がいなくなったわけではない。神戸の実家では蚊に”咬まれる”と言っていた。良く考えると、蚊は吸血時は口を皮膚に突き刺すわけだから、咬まれる、というのは若干象徴的な表現だ。関西でそういうのかどうかは解らない。或いは我が実家のみの用法であろうか。

本来なら刺される、くわれる、などがメジャーであるようだが、最近はこの言葉の保護のつもりで、半ば意地で”咬まれて”いる。

文頭で引用した寺田氏の言葉、どうも僕は蚊に”咬まれやすい”体質で、ちょっとした水遣りで10箇所くらいは普通に咬まれてしまうのだが、寺田氏がアトリエで蚊に”咬まれ”る時、体を動かすのが体にいい、というのは半ばやけくその言葉かと、はじめは感じた。

蚊がいるのはしょうがない。蚊に刺されるのもしょうがない。それならパチンパチンやる行為を一つ前向きに考えてやろう。でも、本当はたまらないんだよね、という。

しかし、考えてみるとそうでもないのかもしれない。画家はアトリエでいわば魂が画業に集中している。長時間固まったままであることもあるだろう。ここで体を動かせば、入神の心地が崩れる、という思いで、基本はすごしているはずだ。アトリエは神聖な勝負の場、というわけである。

そこで蚊が登場する。

痒い。我が皮膚に止まるのを目の当たりにすれば、普通はパチン、と動かざるを得ない。外界からのやむにやまれぬ行動の指示。これが蚊の効用なのであろう。”体にいいんですよ”の一言、蚊がいない時期は或いは凝固しすぎてからだの筋でもおかしくなるのではないか。

そんな画家の長年の経験の一言であるような気がしたのである。

犬や鳥がぼうふらの湧いた水を安心して飲む、というのもいい。水草購入ついでに、藪蚊を寄せ付けない、というスプレーも買ったのだが、これをあまり使うと、庭にいる約4匹のアマガエルが、えさにこまることになるかも知れない、と気がついた。なるべく使用は控えねばなるまい。

水をやっているときは、両手がふさがっており、咬まれ放題である。寺田氏のようにパチンパチンやるわけにはいかない。まあしかし、絶対発生量がめだかで抑えられているわけであるし、今年は少しは毎朝蚊に貢献することにせざるを得ないかと思っている。

セザンヌの塗り残し―気まぐれ美術館

セザンヌの塗り残し―気まぐれ美術館