夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

メメント・モリと頭蓋骨。

ラファエル前派展へ行った。


渋谷の街はやはり大混雑で、外国語が入り混じる。
場所によって歩いている人の性別や年齢が変わってくるのも面白い。

レオナールフジタの銅板や、金子國義の銅板を見てからラファエル前派展へと向かった。

僕が小さなころは印象派が人気だったように思う。ミレーやコローの作品が新聞に掲載され、複製画が壁に溢れていたような記憶がある。

子供だった僕は、なんとなくよくわからない、という印象を持っていた。わかりにくいのが”美術”なのか、と。

もちろんそうだ。なにしろ”学校で教えるものなのだから”。


例えばラファエル前派。わかりやすいと思う。もちろん主題はあまり日本人にはなじみがないかもしれない。だが解説を読めば、わかる。絵も直截だ。

こうした絵に出合ったのは、神戸にいたときに見たベルギー印象派展であったように思う。フェルナン・クノップフなどを見て、幻想小説ファンであった当時たぶん高校生であった僕は感動し、そこから少しずつラファエル前派に近づいて行った。

美術の本道ではないらしいのも、好印象だ。”みんなとは違うものが好き”というのはたぶん若い人は嬉しく思うものなのだろう。

いまは違うようだ。もちろんあまり興味がないこともあるだろうが、印象派よりラファエル前派のほうが一般に好かれているのではないだろうか。

時代が変わると世間の好みも変わるものか。みんなが語りだすと天邪鬼の僕の心は少し冷めるのだが、まあこうして日本でロゼッティやミレーをまじまじと見つめることが出来るのは、嬉しいことである。

ラファエル前派が発生するきっかけとなった英国アカデミーの状況というのがまず僕には実感できないわけで、それがどれだけ退屈だったのかはわからないわけだが、その退屈さへの反発でこうした運動が発生した、という意味では逆説的な存在意義はあるのかもしれない。

美術展での感動は、ああ、あの図録で見ていたあの作品の本物が目の前に、というものが結構あるのだが、そうした意味では今回は超有名な作品が多かったわけではない。むしろほとんどないといっていいかもしれない。だがそれ故にふつうに絵として楽しめた感じもある。

ミレー26歳頃の作品である”春(林檎の花咲くころ)”やチャールズ・エドワード・ペルジーニの”シャクヤクの花”などが個人的には面白かった。ペルジーニという画家は初めて知った。

画像では”シャクヤクの花”は見つからなかったが、3美神に当時の服装をさせたと思しき意匠の面白い作品があったので、張り付けておく。

達者な画家だと思う。特に顔の表現が柔らかく印象がいい。

で、頭蓋骨だった。


ラファエル前派展へもいったが、耳鼻科へもいったのである。


もともと鼻が良くない。高校生のころまではずっと鼻が詰まっていたし、花粉症もある。

で、状況を見ましょう、ということで、頭蓋骨のレントゲンを撮ったのだ。ああ、忘れていたが、このことは前項でも述べていた。

欧米の思想に、”メメント・モリ”がある。”死を想え”と訳すと思う。絵画表現では、美女と頭蓋骨を対比させるのが多いようだ。

日本ではあまり図柄としてははやらないと思う。頭蓋骨が出るのは大体が幽霊画や無残絵の中のようで、あまり趣味が良いとは思われていないのではないか。悪趣味、ととらえるのが大半だと思う。

なんとなく不思議であった。この違いはなんだろうか。

埋葬形態や宗教が絡むのだろう。そもそも日本では火葬が一般的であって、死んだら”骨になる”ではなく”灰になる”のであるから。

灰になる死後を想うにあたり、頭蓋骨はちょっと違う。

頭蓋骨としてある死後の自分、を想うことが難しい。

たぶんそのあたりに起因するのではないだろうか。

そもそも復活の日には、人は墓場から骸骨で出てきて受肉するのであるから、骨は必要だ。

そうした文化との差異、これが頭蓋骨に対するスタンスに表れているように思う。


しかし生きている自分の中身(いや魂ではなく)、皮膚の内部にある自分の頭蓋骨を見ることはいままであまりなかったようだ。骨を折ればレントゲンを撮る。歯の治療でも撮ることは撮る。だが部分的。


今回は違った。モニターの向こうにまん丸いというかすこしなが細い頭蓋骨が映っていた。

まさに”メメント・モリ”。



頭蓋骨をまじまじと見つめるあの西洋画の美女たちは、そうか自身の頭蓋骨を見つめていたのか。

考えると当たり前だ。他人の骸骨では”死は想えない”。


想った、死を。


骸骨を愛でた有名人で思い出すのは澁澤龍彦




・・・氏はどんな思いで頭蓋骨を愛でらえれたのであろうか。




シャクヤクの花,ありました。