夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

僕はこんなにも植物が好きで。

秋になった。蚊が少なくなり、外で植物を見るのが楽しい。

夏の暑さを過ぎ、植物達も生き生きとした葉の色を見せてくれる。
夏の間は少しでも外に出ようものなら、たちまち何箇所も蚊に刺されていた。で、水遣りが億劫になって、枯らしてしまった鉢も何個か出てしまった。

夏の暑さで枯れたと思ったガーデンシクラメン3株のうち二株が復帰して来たのも嬉しい。玄関前の細長い鉢は底も浅く、たぶんすごく環境としては悪いのだろう、様々な草たちが討ち死にしている。

最近は調子が悪そうだとあわてて別の鉢に移すのだが、黒龍は間に合わなかった。日本原産だと思って油断したのがいけなかったようだ。

この時期に楽しいのは売れ残った草花が夏の暑さで見栄えも悪くなり、安値になることだ。前にヒューケラ100円祭り(勝手な名づけだが)で7−8株を一気に買ったときは気分が高揚した。本日は2匹目のドジョウを狙い再びホームセンターへ。

あった。狙い通りというべきか、ホスタ(ギボウシ)が安くなっている。宿根草であるヒューケラやホスタは、見栄えが悪くなっても来年まで待てば楽しめる。安く何株も手に入れば、数株で失敗してもよいではないか。

ヒューケラは夏の暑さで死滅する場合が少なくないが、日本原産のギボウシであれば、そのリスクも減るだろう。最近やっと庭の草むしりをしたが、今年の春、一番強いと信じて3株も定価で買ったヒューケラ・キャラメルは死滅していた。捲土重来、ホスタの導入を考えたわけである。

実は本日は土を購入&椰子系の木のリサーチを兼ねて、近くの園芸店へも行っている。ヘゴやヤシもあったが、大きいものだと高価であるし、置き場所にも悩む。シンボルツリーとして1本欲しいのだが(ホプシーはやはり枯らしてしまいそうで、暑いこの地ではやはり南国系の木のほうが良い気がしている)。

そこで一株150円の安いヒューケラを発見。ハルディン社のヒューケラは色も良く見栄えもいいが、一株400円ではちょっと高い気がする。今日のヒューケラは、葉が小さいので、古典種なのかもしれないが、150円は魅力的な値段だ。あまり見ない種類なのも気になった。

購入は、カーリースカーレットとブロンズパープル。帰って家にあるヒューケラを見ると、ブロンズパープルは玄関のメイン鉢に植えている(家では)大株と同じ種類のようだ。カーリースカーレットはその名の通り、綺麗なスカーレット色がみずみずしい。

そして更にホスタ祭り(再び自分勝手なネーミングだが)と来た。思わずしゃがみこんで品定めである。

現在は自分で買ったホスタは3種。サガエにパトリオットにゴールデンティアラ。それぞれ500円くらいで購入。現在間違えてパトリオットは冬の間に捨ててしまったので(これがホスタの場合恐い)、二種類が残っている。あとは、家についてきた二鉢と庭の1種類。そういう意味では結構あるほうかもしれない。

サガエは大株になるかと思ったがあまり直ぐには巨大化しないようだ。こちらは玄関の方にあるので、庭の方に出来れば大型種を導入しようと思っていたのだ。

本当は通信販売でビッグダディ等を買おうかと思っていたが、なかなか実行できなくていた。1株150円か200円なら、何株か同時購入できそうだ。

名前の札が取れてしまっている株もあったが、結局は8株を購入。締めて1300円。一株500円の定価だと3株買えない値段だ。

購入したので、今名札が目の前にあるものは、
 
 ワイドブリム(大型種、高さ90−100CM)x2
 (Wide Brim)

 オーレオマルギナータ(中型か。高さ50−60CM)x4
 (Aureomarginata)

 これらが全て150円。

あと、名札の取れた大型株と、小型株を200円で。

庭でなんだか汚らしいな、と思っていた箇所に植えつけた。なんとか無事に大きくなってほしいものである。
[rakuten:tsuchikko:10000729:detail][rakuten:hana-online:10006053:detail]

色々見ていると、ワイドブリムは中型となっていた。狭い庭なので、これくらいがいいかもしれない。



著名マンガ家の娘3人が語り合う本を読んだ。

ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘

ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘

水木茂、手塚治虫赤塚不二夫

この作家に藤子不二雄永井豪石森章太郎、松本零二あたりを足せば、ほぼ70年代-80年代のマンガ文化は網羅できるだろう。

本のタイトルが秀逸。編集者が午前2時に思いつき、飛び上がったというが、なるほど一本とられた、の感だ。

マンガ家を年代を追ってフォローし続けるのは実は切ない仕事だ。ある作品が好きでその作家を追い続けると、必ずや画風の変化があり、傾向の変化がある。

特に個人的には手塚や赤塚に感じたものだ。アトムがすきで、おそ松君が好きで、ずっとそのテイストを持った作品が出てくればと思ったものだ。しかしそれは傲慢であったのかもしれない。「青年向け」や「劇画」と題されたときの作品は、今はともかく、子供には厳しかった。拒絶された思いさえしたものだ。

そこにいくと水木作品と、藤子作品は違った。パーマネントな別世界が広がる。この安心感が、この二作家を別格としている。

しかし、娘たちは反発しながら見事に父を支えている。息子、娘の存在の違いを実感する。そこで反発が少ない、あるいはほとんど無いのが”水木の娘”。これも作品、作家の違いが出ているようだ。

手塚るみ子さんは、「ドン・ドラキュラ」や「ブッキラによろしく」の頃の手塚作品を、読者に媚びている、といって批判したとか。これは実は僕も感じていたことである。自身が一番わかっていただろう。そこを指摘するのが娘、そして全てを認め、守ってゆくのも娘。娘というものはすごいものだ。その感想が全てである。