夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

春近し。

だいぶ暖かくなってきた。

そんなことは、生物たる僕の体が寒さに備えてピリピリしていたのだ、ということに、そのときはそう思わなくても、たとえば風呂に入っているとき心と体に力が入っていないことにふと気が付いて、ああ、何と力が入っていたことか、という形で少し客観的に実感したりするときに”気づく”。

それは池田晶子さんが、温泉で、何と自分は疲れていたのか、と気が付いて大解放されるのと、少し似ている。だが、冬の寒さに耐えているとき、それは時間を意識して凝縮して使っている、というのと少し似ている。体を大解放しているときには、頭があまり働かないようだ。南の島、というと差別のようだが、そんな地域で気持ちよく過ごしていると、ガチガチの哲学を考える必要を感じにくいのかもしれない。南の島では、生き方の叡智はあっても、文章に書いた叡智は出てきにくいような気がしている。本当は階級社会や奴隷の存在が昔は必要で、今は機械文明による余暇の創出が必要、ということなのだろうが。

個人的には、やはり暑い時期、冷房が無いと、どうしても頭が働かない。暑い暑い暑いと四六時中考えている。気持ちのいい春であれば、やはり草花の芽吹きに眼が行く。

そんな芽吹きを少しずつ感じる時期になってきた。こうなるとうずきだすのが”園芸魂(苦笑)”。具体的には”ヒューケラ病”である。

妙にヒューケラがすきなのである。花ではなく葉の色がとても綺麗なのだ。けっこう夏の暑さに弱く、又歳を経ると茎が上がってきて、再度土中に埋めなければならない。これがけっこうデリケートで、失敗すると消えてしまう。一株400円くらいと花にしては高い。

いろいろあるのだが、大きく育っているのを見ると、特にこれからの時期大変美しい。

で、昨日散歩の帰り、ホームセンターの安売りコーナーで半額200円のオプシディアン(だったか?)を4株見つけ、イタリア製の小さめのテラコッタが300円だったので、2鉢と一緒に思わず買ってしまった。

オプシディアン(だったか?)は、あんまり強健な種類ではなかったように思うのだが、同じ種類が4株あれば2株ずつ植えられる。単株ではなく複数植えるとこのヒューケラというやつは豪華になるのである。

この冬も下手をすれば3株だめにしたような気がするが、元気に育っている株を見ると、又つい買ってしまうのだ。種や地植えは失敗しているが。正に病気、”死ななきゃ治らない”だろう。たぶんこの楽しみは、”死後はない”。

春になると、又春は巡り来る、という心持になる。もう直ぐ桜も咲くだろう。北の人たちが春に出合って感じる喜びを思う。妙に時間をいとおしく思う。それはもう、”自ら、歳を経る毎に”。善く生きる、ということは、そんな気持ちを大切にすることから、ゆっくり始まるような気がしている。[rakuten:baranoie:10010777:detail]

上のような画像を見つけた。名前は大丈夫だったようだ。

少し前だが、東京に大雪が降った日、松井冬子展へ行った。

たしか18日までと思う。横浜美術館、美しい美術館である。予想以上に素晴らしい画と出会えた。