夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

大衆の反逆。

オルテガの”大衆の反逆”を読んでいる。

実はこの本、1年ほど”積読”状態であったのだが、ふと通勤カバンに放り込んで数ページを読んでみると、これはただ事ではないぞ、というほどの衝撃を受けたのであった。

なぜ、それほどに?自ら訝るほどの衝撃をこの本から受けた理由は、考えるに自らが生まれてこの方感じてきた思いをピタリと言い当てられたからである。そう、僕はつまり”大衆”として生まれ、感じてきたのだ。

大衆の反逆 (角川文庫)

大衆の反逆 (角川文庫)

僕自身がこの世界で生まれてから、皮膚で感じ取り選んできた感情や立ち居振る舞いは、それが自然で特に意識的して選んで得てきた、という意識がなかったことから、ごく普通に”これが人間というものの自然な=一般的な内面感情」なのだろう”と思ってきた。
例えば、

・特に科学技術という意味では、今の時代は(その倫理的是非の問題はあるにしろ)過去と比較して一番先にいる。
・(いろいろな問題はあるにしろ)今の時代は過去の時代より良い。
・政治、というものはどうしようもないものだ。地方選出の”地方の言いたいことを代弁してくれる、地方に仕事を取ってきて、そのかわりに自らもそこから継続的利益を得る、商社的機能を持った家業としての生業、それが政治家である。それはそれで仕方がない。しかしそうした人たちを選挙で選ぶ、という行為は自分とは何も関係が無いし、行かない。そもそんな人たちを自分が選ぶ必要性を感じない。そうした必要性をきちんと示すことがなく、権利だ、義務だと説明せずにアイドルに言わせる選挙管理委員会というものは一体なんなのか。というか、そういう立場で仕事だから言っているのだろう。言っている個人もそんなことたぶん思っていない。
・しかしアイドルに言わせること自体、委員会の人たちの政治に対する正しい理解を逆に示しているだろう。正にブラックジョーク。それであれば好きなアイドルを上手く出してくれれば”祭り”としての選挙に行ってやってもいいかな。
・つまり政治とはことさら選ばれた人がやるわけではない。きちんと調整することはそれはそれで大変だろうが。
・政治家を揶揄したり、風刺したりすることは意味がない。それは政治への裏返しの期待と敬意の表れであるから。そもそも地方利益を引っ張ってくる仕事の人のことを考え、批評する時間がもったいない。風刺漫画などは特に嫌いだ。そんなことは自分が同じように生業として政治家をもしやっていのなら、どれほどうっとおしいか。
・つまりはもし生業として家業であるのなら、自分も政治をやることになるだろうし、そのときは風刺はうっとおしいだけだろう。
・結局は政治は”平和”のときにはどうしようもないものだ。
・政治家とは、特段優れた人々ではない。
・善く生きるより、ただ生きている。そのことは特に意識しない。
・新聞の投書欄や社説が嫌いだ。読む気がしない。正にわがままな子供として、文句ばかり言う投書。自らがやる、という意識がなく、これも批判ばかりの社説。人に文句を言う前に自分がなにをするかではないのか。人を批評する程新聞は偉いのか?

以上が例えば生まれてきて感じてきたことだ。政治に関しては裏側に大きな期待があるのがわかるし、それゆえの失望を感じてきたのもある。また、現代のソクラテスであり、”デルフォイの神殿の”現世に現れた巫女たる池田晶子さんにより、”我パンのために生きるにあらず”と気づかせて頂き、それ以来”善く生きる”ということを意識しているが、そもそもそれに”気づ”かなければ、ずっとただ生きていたのかもしれない。客観的に見ることなくば、ただずるずると生きていただろう。
又”科学技術”というものを信じることもまた信仰の一つであること、現代が”便利さ”に隷属する時代でそれに気が付いていない、意味無いさえずりで充満した社会であること、2500年以上まえのソクラテスの時代から、精神面での人間の進歩は全く無いこと、なぞもまた池田さんに教えていただいた。こう書いていてももし池田さん(の著作)に出会わなければ、とぞっとする。

そしてその生き方、感じ方こそが、オルテガの言う”大衆”そのものであったのである。

そして大衆というものが、19世紀を経て、この時代に至って現れた初めての特殊な集団であったのだ。
現在の政治は、基本的には”ポピュリズム”だと感じている。”大衆”=有権者の皆さん、に”政治家”がわかりやすく、一人一人への利益供与に近い形で条件を示し、それが耳あたりがよく、短期的に得しそうであれば、それを選ぶ。政治とはそうしたものになっている、というのが現在の僕の理解である。もはや”地方の利権”で”利権を集団的に管理し、強制的に投票させる”集団がなくなり、直接”票を取りにいかねばならない”。

それはただ、構造が変わっただけであり、根っこのところの”志の低さ”は変わっていない。

そんなところを示し、無理だろうなと思いながら理想形を示したのが、プラトンの”哲人政治”であろう。しかし”大衆”である我々は、”選ばれた少数者”がいることを認めるのが”悔しい”から出来ないし、結局は(現在の)政治には興味がない、あるいは理想の政治を考える、というしかない。

しかしこれも池田さんだが、教育がどうしようもなくなっているとすれば、”政治などは根源的に全く関係がなく”とも敢えて”文部大臣”(当時)になりましょう、とおっしゃったその魂、それこそが理想の人間である、と今は考えているのだが。