ネット上に、池田晶子さんが”自分と他人とは同じ”といっているのは、どういうことか、という疑問が出されていた。
疑問への回答期限は過ぎていたが、では期限内であれば答えを書き込んだかどうか。正直わからない。
だが、妙に心に引っかかるものを感じ、数日考えた。
正鵠を射る、という感じにはならないが、池田さんや、睦田氏の書かれたものを読み返すと、ぼんやりと浮かんでくるものが、ある。
この質問では、まず言葉の大前提を明確にする必要がある。
池田さんは、まず、自分、というものが何であるか、というところに、徹底的に拘った人だ。
「勝っても負けても」 P.38を読むと、
”私は、自分が誰なのだか全くわかっていない。わかっていないし、それが正しいのだとも思っている。誰でもない、ということが、自分である、というそのことだからである。自分である、とは恐るべき謎なのである。”
と述べている。
そう、自分と他人とは同一である。ということを言う池田さんのいう”自分”とは、誰でもない、というものなのである。
又、「新・考えるヒント」P.35では、ウィトゲンシュタインを引用し、
”世界霊魂がただ一つ現実に存在する。これを私はとりわけ私の魂と称する。そして私が他人の魂と称するものも専らこの世界霊魂として把握するのである。”
ウィトゲンシュタイン 「草稿1914-1916」
輪廻転生思想は、世界精神、と同じものを見ているような、ということをぼんやり思う。
又、Remark 06.May.1998 を読むと、
「人間の」という形容
を踏み越える刹那の快感
枠がはずれて
狂気も掌中のものとなる
と来て、そして睦田真志氏との往復書簡 「死と生きる」 P.38で睦田氏は、
”「俺の生命は俺ではなく、俺の体も俺ではない。俺は俺という考えそのものだ。俺そのものが真実(イデア)であり、皆、同じ一つの存在なんだ」”
と述べている。
いくつかの引用を並べてみて、池田さんが言いたかったことがぼんやりと見えるような気がしてくる。
真実(イデア)であり、世界霊魂であり、人間の、という形容からも遠く離れたなにものかわからないが、今ここにいる自分、これはほら、”他人”という表現で示されているものと、本質的にはどうちがうのか。。 みんなまとめると、そのような感じであろうか。
キマイラの如く寄せ集めかもしれないが。
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