夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

中年の星。

2009年になった。

元旦である昨日は毎年恒例となった”元旦故郷日帰り”を決行。
名古屋ー神戸の日帰りだが、昨年から亀山ー栗東新名神高速が出来たため、走行距離が約50Km短縮、更に帰りは関が原で雪で往生するのが常であったが、それも避けられるようになったのがありがたい。

当方からだと、丁度片道200Kmとちょっと。京都までは曇っていたが、神戸は大変晴れており、須磨海岸へちょっと寄り道しても3時間弱で到着した。

僕自身は、余り紅白を見たりということはしないが、この新年という仕組み、意識してリセット感を作り出す仕組みは良く出来ている。江戸の人間は、火事があまりに頻繁に起きるので、火事で財産一切を失っても余り悩まない、悩みを押し込むのではなく、発生しない、という記事を新聞で読んで、面白かった。

初詣に行く。人ごみ。喧騒。外部から無理やり非日常を強要されることの強制力。江戸での火事もそうだろう。若いときはそういった喧騒をある意味しきたりとして自らに課す心理が今ひとつ理解できなかったのだが、自らの心の動きが強制的に外部から変えられることの効果を、無意識かで理解していた古人の知恵なのかも知れない、という風に最近感じる。

神戸への日帰りも個人的には、そういったもののひとつだろう。父方が神道、母方がクリスチャンに(積極的な)無宗教、で、養子に入った母方の祖父の家は禅宗、という見事に多種多様の宗教(無宗教含む)に囲まれて育ち、神社や寺での振舞いをどうしたらいいか決定できずにいた僕であるが、これは初詣、積極的に行うのも手かな、などと思っている。これがひとつの池田晶子さんがおっしゃる、”年齢相応に年齢を楽しむ”ということかもしれない。著書”人生は愉快だ”での、”出雲へ参る”の項も頭に浮かぶ。

などということを日々ぼんやり感じていたところ、元日の読売新聞に、特別編集委員橋本五郎氏と小泉今日子の”新春対談・2009年どう生きる”という記事が目に付いた。

小泉”年相応でありたいということはずっと感じていることで、背伸びもしたくないし、甘えたくもない。今、42歳のままストンと立てるような心でいたい。「アラウンド・フォーティー」(40歳前後)という言葉がはやり、「アンチ・エージング」(脱老化)という言葉も出てきましたが、私の場合は、「アンチ・アンチ・エージング」という感じ。40代は人生の折り返しと考えると、年を取ることはすてきなことだと思います。”

親近感を感じるがゆえに小泉今日子は呼び捨てになる、或いはコイズミとなり、キョンキョンともなる。あれは高校生の頃だったか、運動が出来ず、組にもいまいち疎外感を持っていた僕に、ちょっとワル系の同級生から、”キョンキョンのファンクラブに送るので、似顔絵を描いてくれ”と頼まれたのは。手塚治虫系のマンガ描きであると自認していた僕であったが、絵を”注文”してもらった驚きと嬉しさは忘れられない。一生懸命に描いて手渡したが、ぜんぜん似ておらず、単なるカワイ系の少女像となったのだが、ファンクラブならそれも良いだろうとも思った。結果は聞いていないが、それ以来マンガの模写を(別の友人であったが)頼まれることがあった。嬉しかった。無償であったが、頼まれる喜びを知ったことは、その友人に感謝し切れない。

それ以来、キョンキョンは僕にとって特別な存在となった。正直デビューのころは特に感じるものはなかったが、似顔絵を描くということは、その人の顔を丹念に見ることが必要である。当たり前だが。それはこうして人の文章や、述べたことを、書き写す行為とも共通する。細かいところが、自らの脳髄、あるいは魂(ちょっと大袈裟か?)に、深い理解として、刻み込まれる行為だ。絵(芸術)と言葉(哲学)が双生児であると感じる部分である。

キョンキョンのこの一言に、キョンキョンが只者ではないと感じる。アンチ・エージングという行為と考えへの違和感は、池田晶子さんが常々発言されていた。小林秀雄も又。初めての”年相応の感覚”を大事にする。それはいまこの瞬間しかない、この瞬間瞬間が永遠であり、それのみを自らが所有するのであり、それは瞬間でありながら永遠であり全存在の全てである、ということにも繋がる。端的に自らを自らとして感じる行為である。自らが本来の自らではない、と感じているから出る言葉である、”アンチ・エージング”は。エージングとは自らのこの肉体である。肉体と併走するこの魂へ重きを置いていないことを図らずも表明してしまう言葉でもある。

言葉としての”アラフォー”への違和感もしかり。これをコイズミは(呼称が一定せずにすみません、コイズミさん)、まず略さずに”アラウンド・フォーティー”と表現することで違和感を表明する。ケータイしかり、人は言葉で略すことで、無意識にその言葉への親近感を表明する。ここを意識した人の発言である。小泉氏を読書委員とした読売新聞社の慧眼を感じるところである。

”新しい言葉に違和感を感じているだけかもしれませんけど、「アラフォー」と言われると・・・・・・。「輝いていなければいけない」というニュアンスが含まれているような気がして、「いや、もっと疲れているだろう、私たち」という気分になるんですよ。”

自らの感覚や言葉を大事にし、外的な言葉の強制力に敏感な人間の発言であろう。思えば彼女は歌手である。歌手とは詩を歌う人間。歌を歌うことは、あたかも絵における模写や、モデルの微細への肉迫、言葉の書き写しによる思想へのピッタリアクセス感にも通じる、詩、言葉への肉迫行為である。言葉に意識的にならざるを得ない、コイズミのこの感覚を僕は信頼する。

Nice Middle。
中年をあらわす”昭和の引き出しから引っ張ってきた”この言葉は、本来は”シブイオッサン”をメインであらわしてきた胡散臭さが付きまとう言葉でもある。女優であるコイズミが、これを引っ張り出すとき、そこにはしたたかな言葉に対する戦略と繊細な感覚が隠れているような気がした。

アラフォーにある強制感がない、自然体を認めるコトバ。”Nice”とは池田さんのいう"善く生きる”の”善く”に通じるものがある。