夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

他人を攻撃することは、安易に自己肯定感を得ることのできるチート技である。

学校というのはいろいろ難しい。

私は小学生のころ、親が「この子は中学校ではいじめられるんちゃうか」と感じてくれ、自分自身でも「僕中学校いったらいじめられそうや」と思っていたことで思惑が一致して、たまらない受験勉強もびびりの一念でなんとか突破して中高一貫の男子校に入った。

そもそも別にいい大学に入ろうという意図は皆無であった。とにかく「いじめられそうや、やばい」の一念であった。

結果的に受験校であったので、とにかく算数が大嫌いすぎて困ったが、なんとか暗記(暗記力も非常にプアだが算数力よりは上)でとにかくわからずとも答案になにかを書きまくる、という技も使いつつ、なんとか文系大学に滑り込んだ。

全びびり力全開でも実質学力では地域一番校にはまったく歯がたたなかったので、地域5番校ぐらいであった母校にいくことになった。

通学になんと片道2時間かかったが(1年目は遠すぎて寮にはいったが、いじめではないが4人部屋がつらくて病気になったので通学に切り替えた)なんとか6年通うことができた。

学力はとにかく学外の試験とかで客観性を大事にする学校であったのだが、聞くところによると一般の学校では偏差値、つまり周りの学生との比較が中心であり、とにかく周りの学生が学力低下すればいいわけであるので、勉強を邪魔したり、なんだかんだで客観的な日本の学生の学力がどんどん下がっていった、ということをあとで聞いた。

人を貶めることで、集団のなかでの自身が安定する、という感覚はわかる。生贄がいる限り自分はその瞬間だけはOKだという奴だ。

だがなんとも残念な気持ちはみんな実はわかっているし、嫌である。なんとも人付き合いは面倒だ、ということになるだろう。

これがイジメである。勉強が主な尺度である「受験校」はそれほどそういういじめは少なく、また男子校でもういろいろ諦めていたので、まあ、シンプルな生活ではあった。

集団ではなくとも、例えば芸能人の不倫をたたくのは、自分は正しい、という感覚を安易に得られるが為であろう。芸能人になる、ということはそういう生贄になることと、いまだにニアリーイコールだ。

だがそういう世界観は個人的にはちょっと残念であるように思う。不倫はよくないかもしれないが、それはその人にとっての良い悪いなので、関係ない人が意見をするのは、個人的には残念だし、結局は自分の感覚の為である、ということを自覚するのがいいと思っている。

まあ、そうしてけなす空間をつくることで、みんなが不倫しにくくなり、巡り巡って自分のパートナーが不倫しにくくなる、というバタフライエフェクト的な効果もある、という意識が少しある点も、考慮する必要があるかもしれないが。

(フランス人が不倫に文句を言わないのは、私もあなたもするかもね、という空間だからでしょうね。。)