井筒俊彦「意味の深みへ 東洋哲学の水位」をすこしずつ読んでいる。
東洋文化では、「自己」を理念的あるいは概念的に理解するのではなくて、先ず哲学者たる人間が真の「自己」を自分の実在の深みにまで主体的に追及して行き、それを自ら生きるということ。
P.38より。
これまで私は、自己の追及といっても、「この世の事象のなかの私」が内在している「自己」を探ろうとするのが基本だ、という感覚を自然にもってきた。だが、井筒のいうのはそうではない。いや東洋哲学が言ってきたのだが。
学問をあくまで対象であったり、「儲けるための手段」としての義務感で行うことは面白くないし味気ない。自らが「学びたい」という構えがあれば、それは義務から娯楽へと変わりうる。
かつての大学教授とはそういううらやましい境地にあったのだろう。
だが研究より「実業で役立つ人材」を養成する機関である、とされてしまった大学には、かつての甘美さはなくなってしまった。
では、「自己」はどうか。「勉強」はやらなくてもまあいいが、「自己」はもっとやらなくてもいい。言ってしまえば、大多数の人は特に追及することなく人生を終えているのではないだろうか。
だがひとたび自己の深みを考慮すれば、いわゆる「現実」は単なる深層心理の多層の中の一つとなる。どうしようもなく現実味があるこの世界が、自己を追及することで、「One of them」になってしまうのが、この自己探求の面白さであり怖さでもあるだろう。
追及した先はたぶん「ONE」「全」「一」「永遠」といったものとなるのだろう。
そこでは「神」という表現もまた、あるのかもしれない。
(境界がない、という言い方もありましたね)