自己責任という言葉が最近では悪い意味で扱われることが多くなってきましたが、基本的には誰でも自分の人生には自分で責任を持つ必要があります。自分で責任を持つためには、自分で考え、自分で行動しなければならないのです。
勝間和代
今は「自己責任」ということばにドクサが厚くこびりついて、「国民を政府が援助しないときにする政府側の言い訳」というニュアンスになってきた。
なので、「それは自己責任でしょう」と言えば、
言われた人は「云い放たれた」「偉そうに言われた」「アンタに言われたくない」「そんなこというのなら同じ条件でオマエがやってみんかい、ボケッ!!」という戦闘的な気分になる。
まあ、人を拒否するときにその言葉がずっと使われてきたので、仕方がない気がする。いわゆる「手垢の付いた言葉」であるが、あまりいい手垢ではない。手垢にいいも悪いもないようなものだが、言われる環境がいつも悪いと、手垢というより、怨念、と言った方がいい感じになる。
「怨念のついた言葉」
これは例えば昨日の日記で書いた言葉「親ガチャ」にもすこし感じられる。
そんなこというならお前の親のところに行かせてみんかい!!いや行かせてください(懇願)、
といっためちゃくちゃな感じになってきている。
言葉はある意味生き物だ。というか生き物が使う者が言葉である。
なので、不変ではないのだが、不変であるように誤解されてもいる。
自己責任、を自らのなかに包み込んで、自身が心から発するとき、それはいい意味での「主体性」に繋がるのだろう。
(主体性、難しい境地ですが。。。(自分しらべ))