夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

文字に意味はない。

呪術とは本来意味のないことに注意を向けさせて、あたかも意味があるような気持ちにさせる、という面があるような気がする。

例えば、文字には、文字自体には意味がない。だがある文字が、文字自体、あるいは呪文自体が意味を持つ、と思ってみると、なんだかたいそうなことを言っている感じがする。

この感じが、いわゆる「神秘主義」といわれるものの持つ雰囲気につながるような気がする。

だが、この神秘「主義」、という言葉にも要注意だ。主義は自身が主義を主張するために無理やりになんでも「主義」にとりこもう、という傾向を持ちがちだからだ。

主義は必要であるから主義となる、という受け身の姿勢が大切であるだろう。また、人に自身の主義を押し付けるために権威をまとおう、という心のやましい動きがないかも、常に気を付けることが必要であろう。

科学がない時代、人はそれでも世の中の見えない決まり事を見つけたい、と思い、先人が見つけたものをある意味ブラックボックス的に受け入れたのが「魔術」というものであったろう。

今の「科学」からすると、少し「笑止」の部分があるように思えて、「魔術」「魔法」はある意味「無味蒙昧の輩」のたわごととされた時期もあったかもしれないが、最近は「魔術」「幻想」「魔法」がある意味ニュートラルに受け入れられる雰囲気がこの世界に出てきている、と感じる。

三島由紀夫川端康成泉鏡花などがいた時代は、幻想が幻想であってもすぐに見下されることはなかった、という意見をどこかで読んだが、私の体感では魔法や魔術は「こども時期だけに与えられる砂糖菓子的なもの」で、いつか「卒業すべきもの」とされていたようにも思う。

だが、特撮が子供のおもちゃから真面目に研究されるべきものへと昇華し、マンガやアニメは外貨を稼げるいわば「世界言語」「世界文化」へと昇華してきている。

これはもちろん、それらを楽しみ愛した世代が高齢化し、老齢化したことが大きな理由であろう。それより前に、絵で物語をかたること、それ自体は、文字で物語を語ることと何ら遜色のない、下に視られるべきものではない、というあたりまえがあたりまえになっただけだろう。

(我々が子供の時から痺れてきた文化に、世界の皆さんも接して言うと思うと、悪くはないですね)

 

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