夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

新聞の、いいところ。

池田晶子さんを気取るわけではないのだが、TVをあまりみない。

結果的にそうなっているだけで、特別くだらない、と思っているわけではない。基本的に映像は好きだ。視覚系の人間であると自負しているし。

お笑いも好きだ。関西人だからなのか、お笑いをくだらない、と言い切る気持ちにスノッブなものを感じて反発する、下品を許容する度量で人間のデカさを測る文化であると思う。上方文化は。

視力がよくなくなってきて、例えば字幕を見るのは疲れる。なるべくCM(CMも広告代理店に入りたかったくらいで好きなのだが)も飛ばすのが面倒なので、まあ、衛星の映画くらいが楽そうだ。

一番の理由は子供の居る部屋にTVがあるからであるが。

もう一つ、池田さんのあまり見なかったものに新聞と週刊誌、がある。この二つを考えたとき、新聞によいところがあると思った。

それは、”基本的に自動的に捨てることが決まっていること。”

人によっては雑誌もすぐ捨てるのかもしれないが、僕は良い記事などがあるとすぐ”コレハステラレナイ”(ロボ風)となってしまう(昨日ワンピースを立ち読みした)。

ということで、雑誌を見ると”ああ、置き場に困るワイ”という思いがどこかで確かに湧いている。

新聞はそれがない。逆にきっておかないとあとから探すのは厄介だ。だから過去情報提供が金になるのだろうが。

リアル活字媒体の衰退が叫ばれて久しい。考えると雑誌などは確かにそうだ。データで見れたほうが便利。検索も出来る。”情報”といわれるものはそういうものだろう。

何故そう思ったのか。新聞の紙面で、”ああ、読んでよかった”と思うのは圧倒的に文化面と読書面。主にそれを読むために新聞を読んでいる。あと読売の場合は人生相談も読ませる。

個人的にはそれだけ読めれば十分と言う思いであるのだが、それでは経営が成り立たないことに気づいた。有名どころの作家や教授に書評を書いて貰うには当然それなりの稿料が必要だ。読書欄の製作費用は高いはずだ。みんなが新聞を読んで新聞代を払ってくれないと、良い書評者を維持できない。

言ってはなんだが、日曜日に中日新聞を読むことがあるが、読書欄、ちょっと辛い。いいのも混じっている、が、打率が低い感じ。大学時代の河北新報、あれもちょっと辛かった。辛い、というのは偉そうでスノッブな感じになってしまうかもしれないが。

色々言ってきたが要するになにがいいたいのか。

今日の読書欄(読売)がいたくよかったのである。

恐怖するもの。孤独死。食肉のための家畜屠殺。

それを怖いと言っているのは”考えが足りなかった”。

永井荷風孤独死森茉莉もそうだった。
外国ではアタリマエと三島由紀夫は言ったという。2-3日たつと腐っていたりして、と。本当にそうである。そしてそういうことを露悪的にいえるところが三島なのだろう。

養豚。生き物を飼って、それを食肉に供すことの苦しさ、みたいなものをずっと考えてきた。子豚と笑いあっている養豚人。

評者の湯本香樹実さんはいう。”詩人が言葉に心を捧げるように、彼の全身全霊は豚たちに注ぎこまれて特別な輝きを放っている。食肉となる豚の運命も、死すべき自分の運命も、彼のなかではたぶん等しい。”

自分の死、人の死、動物の死。

見つめて、見つめきった人たちが、ここにいた。

ブタとおっちゃん

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