夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

祈り。

須賀敦子を読んでいる。

タイの空港で、パスポートコントロールが混んでいたので、「ミラノ 霧の風景」を、そしてここ数日は「ユルスナールの靴」を。

ミラノ霧の風景 (白水Uブックス)

ミラノ霧の風景 (白水Uブックス)

ユルスナールの靴 (河出文庫)

ユルスナールの靴 (河出文庫)

これから異国に入る、という前にパスポートを見せる時間は結構かかる。ふつうはただ長いなあと思いながら待つだけであるが、こうして1冊の古本を懐に待っているだけで気持ちに余裕が生まれる。旅、をそのBGMのように響かせる須賀の書物を読んでいると、異国の地にいる、という自分の気持ちと奇妙に響きあう思いもする。例え須賀が欧州で、自分がアジアにいるのだとしても。

須賀敦子、の名を知ったのは偶然である。そしてこのブログを通じてである。本ブログに来て頂いた方の文に、須賀のDVDの紹介があり、なんとなく気になって図書館で借りてみたのがきっかけである。

老後、に対する文章では、女性の描くものは、「生物的に「老いる」現象を積極的に見つめ」(=曽野綾子(79))「老いるとは失うこと」という視点であるのに対し、男性の書くものは”「老年」期の肉体的な下り坂を、「年輪の余裕、知識、経験」でカバーしよう”(三浦朱門(85))となるという(読売新聞文化欄、3月15日、記者署名 藤原善晴)。

須賀氏の書く文章から受ける一番の印象は、その晩年の作となった”ユルスナールの靴”を読んでも、知的欲求を抑えることが出来ず、そしてそれに従い生きることの不安、不安が安心となる結婚生活が短期間で夫の死亡により突然崩れたあとの不安、それに伴い絶え間なく繰り返される自己への、内面への問い、といったもののパッセージである。

60歳を超えて書かれた”ユルスナール”を読んでも、感じるのは須賀の学びへの静かな情熱である。生活、というものを学びのためにするひと、”学ぶために食べる”人の心である。そこには勿論老後に対する真摯な視点はあるのだけれどどこかどうしても理知的になってしまう生来の論理的な”男性的”精神が垣間見えるのである。いわば精神面で男性的、であるかのような。それは日本人としては男性的であっても、欧米人であれば普通に女性にも見られるものかもしれない。そうした精神に出会うために須賀は欧州行きをあれほど望んだのではないか。

須賀は、学生時代に文学なぞを読んで語る友人を関東では見つけられず、疎開で戻った関西の小さなミッションスクールで見つける。若くして修道院で亡くなったその友人の記憶を、須賀は大切に持ち続ける。そして亡き夫と過ごした異国の地を、帰国したあとも何度も訪れる。記憶を何十にも塗りなおすように。別に望んだわけではないが、結果的に旅を繰り返す精神、須賀のいう”ノマッド”の高貴なる精神。これが須賀敦子の文章から一番に感じ続けているものだ。高貴なる女学生のようなノマッド。これが須賀敦子というひとに対する僕の印象のすべて、ということになるのかもしれない。