夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

絶望とは。

絶望の虚妄なること まさに希望に相同じい。

茨木のり子


肌合い、というのか、文章から受ける印象をもしそう呼ぶのであれば、僕にとって茨木のり子須賀敦子は似ている。

なんというのか、”わかってらっしゃる”という感じである。

それでいて、悩んでいる。いや、むしろわかっているが故に盛大に、深く、悩んでいらっしゃる。

いや、池田さん流にいえば、”考えて”いらっしゃる、というべきかもしれない。

いずれにしても、安心してその悩みに、考えの奔流、あるいは深化に、おつきあいできる、という印象なのである。

精神のバトン、という言葉、これはもちろん受け継いだものを次の”ランナーたるべき人”に手渡す、ということであり、これはけっこう人類の中でも”わかっちゃっているひと”、あるいは”宇宙人”と言われる地球人、は知ってやってこられたのであろうが、ただ、バトンを渡すだけでは勿論ない。

その方が受け継いだバトンに、あるいは色を塗り、あるいは削りとり、あるいは継ぎ足して、そのあとで次に手渡すのだ。

時間は固有のものであるから、人によって過ごす時間は実は違っている。

年を取る、というその経年劣化をあるいは経年良化?をもたらす時間のことではない。

普段過ごす”精神の時”は人によって違う、ということなのである。

人も、その人生の中で、日々違った時間を過ごす。これはあの”若い時の時間は長く、年を取ったら短い”というのと、ちょっと同じでちょっと違う。

要は”善く生きて”いるのか。それが大きく影響している。

我々の誠実な努力は、無意識な瞬間にのみ成功する。 ゲーテ

私は、たとえささやかでも、価値をこの世に作り出すことによって生きている。
ヘルマン・ヘッセ (P.151 危機の詩人 高橋健二より)

死は、多くの命を得るための、自然のたくらみである。

見ることを学べ、読むことを学べ。

心を集中せよー世界は仮象となる
心を集中せよー世界は本質となる

美に対する人間の喜びには、いつも精神と感覚が等しい度合いで関与している(中略)

それができる限り、人間は、自分というものにまつわる疑問を、繰り返し処理して、自分の存在に繰返し意味を認めることができるだろう。
「意味」こそ多様なものの統一であるから。

ヘッセ「幸福論」より

こんなヘッセやゲーテの言葉に接すると、遠い過去の彼らの思いの一端に身近に触れる思いがする。

古典の言葉は過ぎ行かない。過ぎ行くのは時代であって、言葉ではない。
生きる哲学 P.80 若松英輔

あらゆる仕事、すべてのいい仕事の核には、震える弱いアンテナが隠されている。
茨木のり子 ”倚りかからず” P.131

文字が、そもそも神話と歴史の接点に立つものである、ということは、その成り立ち、やむにやまれず、必要であるから生まれた、という文脈で考えればわかることだ。若松氏の前掲著作P.80にて白川静の引用で述べられる。
文字を我々が持っていること。考える、が伝わる。老若男女、時空や人種を超えて、伝わるべき魂に伝わる。

そのために文字は生まれた。


いや、なんだかとりとめのない考えの羅列になりましたが。


絶望、この本質が希望であると看破した茨木の魂を、文字により感じた、ので。

日曜午後の妄言、ということにでも、していただきましょうか。


さて、運動不足、スポーツセンターにでも行きますかね。。。
単身の一人住まい、なのですが、実は日当たりがすこぶるいい。

なんにもしないで、なんと室温20度。

うーん、快適で外に出られない。

ヘルマン・ヘッセ―危機の詩人 (新潮選書)

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幸福論 (新潮文庫)

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生きる哲学 (文春新書)

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倚りかからず (ちくま文庫)

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