夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

詩人と散文。

「おふたかた、いいか、人生には立ち上がるか、逃げるか、どちらかを選ばなければならない時というのがあってな、おれは立ち上がるほうを選んだんだ」

 P.209 町でいちばんの美女 チャールズ・ブコウスキー
 青野聰訳 新潮文庫

「おれは詩人だよ」
「詩と散文のどこが違うんだよ」
「詩はごくごく短いあいだに、ものすごく多くのことを語る。散文は大したことはなにもいわず、量ばかりかさむ」

 同上 P.197

このブログで何回か取り上げたことがある気がするが、僕は読売新聞を購読している。編集委員の芥川喜好氏のコラム、「時の余白に」は、美術関連の記者が長かったという芥川氏の経験を生かした画家や展覧会関係の話題が好きでよく読んでいるが、もうひとつは、たまに池田晶子さんのことを書かれる点も特筆すべきだろう。

5月26日には池田さんの文章からの下記引用があった。
「自分には本質的にしかものを考えられないというどうしようもない癖がある」

このことは、池田さんが折に触れて述べられてきたことだ。逆にいうなら、本質的に考える、ということを一度でも行なってしまうと、もはや”逡巡した悩み””あっちいったりこっちいったり”ということがまどろっこしくなってしまう、ということである。すっきり考えることの快感に抗うことができない。

そんな面もあるだろう。ものすごい面倒くさがりや(関西的表現であれば”イラチ”)であったという池田さんであれば、そうであることは必然であり、避けられないことであったろう。

”ようするに、どういうことですか”。

本質的に考える、ということを行なうと、その表現は”詩に近づくだろう”。ひとつのことばが通常表すことのできる地平を大きく超えて表現する。読むと万感の思いを呼び、思考が跳躍する。

書いて伝える、ということが今よりも貴重であり、コストがかかった時代、詩がその要諦から発達し、主な表現となったことは理解できる。逆にいまの時代、書くこと、読むことのコストが下がり、本はどこででも入手でき、携帯やPCでは言葉はむしろ読むものではなく読ませるものだ。その折に選ばれる文体は、一読即意味が伝わる、すなわち一語にこめられた意味が限りなく少ないような文体、つまり”散文”となる。

これがいけないということではない。僕も生まれてからここまで、ほとんど散文、小説、というものこそが文章世界であると感じて生きてきたのである。詩、というのは、歌のなかにあり、意味も伝えるが調子も伝えるもの、いわば音の従属物、というような感じさえ持ってきたのである。

僕はどちらかというと”読み助”、つまり活字がないとつらいほうだ。いつもなにかを読んでいたい。そうであれば、詩を読むのは時間がかかる。何度も読み、味わい、自分なりの解釈を自己あるいは他人の経験から照らして捻出しなければならない。いわば”詩と格闘する”ことが要請される。

エネルギーも必要だ。だが、本質的な意味を一語あるいは最低限の言葉に込めた”詩”に出会ったとき、急がばまわれ、この世にはこうした言葉があるのか、とまさに”蒙を啓かれる”思いがした。

今、詩が読まれないという。理由はよくわかる。読むのにパワーが必要で、時間がかかる。だが本当にそうか。

本質に接している肌触りを一度知ってしまうと、つまり真実の言葉に接してしまうと、もはや散文が色褪せて見えてしまう。

小林秀雄ランボーに出会ったときに、これは出会いがしらの事故のようなものだ、と表現したように、”物事を本質的にしか考えられない”という池田さんのように、本物の詩、というものに出会ってしまうと、もはや散文には戻ることができない。

そして池田さんの文章、”哲学エッセイ”という分野ととりあえずはおっしゃっていたように思うが、”君自身に還れ”で大峯顕氏が喝破さえたように、池田さんは菩薩であると同時に詩人であった、とも思うのである。

冒頭引用のブコウスキー、”強烈な露悪、マシンガンのようなB級小説の文体”との惹句が示すとおりの読後感ではあるのだが、そのそこには意外なほど澄み切った小川が流れている。要は強烈な照れ屋、なのである。何に照れるのか。生きることに。それがどうしようもなく強烈な表現の後ろに見え隠れすること、これがブコウスキーが皆に愛されてしまう理由なのかもしれない。

町でいちばんの美女 (新潮文庫)

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時の余白に

時の余白に


そんなことがわかった詩人が書いた文学、あるいは詩人が訳した文学、に最近、といってもこの数年、というレンジだが、出会っていたことに気づいた。短編小説の形を取ることの多いその作品集は、いわば詩心を持った散文、とでも称すべきものだ。

まずは最近何度か紹介しているフィオナ・マクラウド作、村松みね子訳の”かなしき女王”。冒頭に収められた”海豹”の強烈なイメージ。神に通じる空間の表出。深き闇のような、奈落のようなものの中に光る真実。

二つ目はマルグリット・ユルスナールの”東方綺譚”。
訳者の多田智満子もまた、詩人であったように思う。これも冒頭の”老絵師の行方”が秀逸。この話に出会って訳出することを決心したと訳者は語っている。奔流のようなイメージ。文中の水に読者であるこちらも飲み込まれるような思いがする。

そして前出の”町でいちばんの美女”。これも訳者の青野氏は、冒頭に収められているタイトルでもある”町でいちばんの美女”に出会わなかったら、訳出をしなかったであろうという。

3冊とも訳者は訳だけではない、自らが訳を通して表現する人々であった。村松訳に至っては、原文を超えた、という表現さえされる。訳出するひとが訳さざるをえない思いでもって訳したもの。これが力をもたないわけがないのである。

かなしき女王―ケルト幻想作品集

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東方綺譚 (白水Uブックス (69))

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もうひとつ、ブコウスキーで思ったことがあった。読後感が、ミッキー・ローク主演の映画”レスラー”に妙に共通していたのだ。アメリカで生きること、のしんどさ。日本人がイメージするアメリカではない、白人だが”あの”白人ではない人たちの本音の生活。シノギ、といったほうがいいか。
”レスラー”はアメリカンプロレスを見てきた目からしても、納得させる身体とたたずないを、ミッキーが作ってきたことで半分以上は合格だった。レスラーとボクサーという違いがあるのだが、要は”戦いに疲れた戦い続ける戦士の身体”をミッキーが表現することができた、ということだ。リング上のムーブもよかったが、降りてからのドサ廻り、これこそブコウスキーの文体と通底するものだ。どうしようもない生。生きるしかない。辛い。

これはまだミッキー・ロークが”昔の顔”を持っていたころの作品だと思われるが、なんとミッキーはブコウスキーが脚本を担当した映画”BARFLY"でヘンリー・チナスキー役をやっているということだ。ブコウスキーが自分自身を投影した人物をミッキー・ロークが演じているとは。シンクロニシティ、の一種であろうか。

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バーフライ [DVD]

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もうひとつのシンクロニシティ。これは未見だが、マット・ディロンがチナスキーを演じた映画に”酔いどれ詩人になるまえに”というものがあるようだ(2005)。そこで出てくる女優はマリサ・トメイ。彼女は”レスラー”での助演女優でもある。チナスキー役をやったミッキーの映画に、別のチナスキー映画の主演女優をもってくる。これはもうその流れでの選出、ということだろう。

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