夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

詩人と言葉と本質と。

本日の体重63.4kg、体脂肪は10.8%だったような。

一日1万歩を目ざしているのだが、会社往復だと5000歩行かない位だ。

結構近いのだが、それが当たり前になると近くていい、という感覚がなくなる。そして運動不足が始まる。

意識して外に出ないと、土日は合計で!3000歩程度であった。買い物等行っていても、この数字。まあ、車で買い物にゆくので仕方がないが

毎日のように24時間ジムに行く話を書いているが、ジムの前後に歩くようにしている。1万歩を達成するために、新ジムに絡めてどう歩くか。前にジムから家まで歩いてみたが、9000歩くらいであったので、無駄に家の周りをぐるぐる歩いて10000歩に近づけた。9900歩くらいで挫折した。

ということは、家まであるいてもなんとなく精神的なストレスとなるのだ、到着しているのに、最後に歩く、というのは結構心理的に嬉しくないのだ

ということで、思いついてジム最寄り駅から2駅戻ることにした。2駅戻ると名古屋駅である。毎日乗り換えているので、つまりそこから電車に乗ろう、というわけだ。

念のために、2駅戻って名古屋駅で電車に乗ってから家から一駅前でおりて歩いてみた。結果10750歩。この流れであれば10000歩は稼げるのだ。新しいソリューション(大げさ)が出来て嬉しかった。

こうした毎日のちょっとした工夫が、結構面白い。ライフハックというのは大げさな感じだが、精神面、体力面、ちょっとした気づきを0.1ミクロンでも進歩につなげる、というやつだ。

もう一つのライフハックは、水2リットルだ。昨日は、毎日の摂取量を明確化したのだが、今日はペットボトル1リットルの水を確保するための最近のささいな工夫を備忘も兼ねて書いておく。

まずは水は湯冷ましを使う。前は駅のコンビニで1020mlの水を購入していたが、面倒なのはペットボトルを捨てる場所があまり無いところだ。すこし大きすぎるのである。

最寄りのペットボトル捨て場では、1リットルのペットは入らない。なのでいつも「どこですてようか」ということが、住宅ローンのように(笑)、こころのどこかでストレスとなって存在するようになったのだ。

そこで最近は、これの購入をやめ(→コストダウン)、湯冷ましの水を家と会社で確保して、空のペットに入れて持参する、というスタイルを編み出したのだ。

これがなかなかいい。一度煮沸しているので、心理的にも「別に悪くない水だ」という安心感がある。

これも勝間さんの受け売りだが、水道水は変な話海外産のミネラル水よりよっぽど安全基準を設けて管理している、という。なので最近は水道水を見直しているのだ。

家では電導ポット?で湯を沸かしておき、翌朝冷めたものをペットに入れている。ジムの時も、1リットルペットを持ってゆき、飲みながらトレーニングをする。無酸素運動で発生する尿酸は、大容量の水で早めに出す必要があるからだ。

①ペットボトルを捨てる場所を考えなくていい。②水購入費用が浮く。③常に2リットル程度の水が確保できている。④その結果できるだけ尿酸値に良いように対応できている。

まあ、そんな感じでやっています。

さて、とても前振りが長くなった。

 

詩人と言葉についてであった。

 

今の時代、詩、というものがいまいち人に読まれていない、という印象を持ってきたが、谷川俊太郎さんへのインタビューなどを読むと、「詩なんて昔から誰も読んでいなかった」ということをおっしゃっていた。

多分、詩に接する人に、純粋な魂を感じて、そういう人に惹かれる、というのが多くの人の傾向で、それでなんとなく「昔はなんとなくみんなが純粋に詩などを読んで感動していた」と思ってしまうのだろう。

勿論、今でも茨木のり子さんの「自分の感受性ぐらい」あたりの詩に接すると、愚鈍な我が魂もピクリと反応する。


自分の感受性ぐらい

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ

 

茨木のり子
詩集「自分の感受性ぐらい」(1977刊)所収

詩人、とは、流れゆく日々の日常の「ことば」の中にひそむ、ダイヤモンドのような「核」を感じて、丁寧に、大切に、詩という形で見せてくれる人たちだ、という気がする。

まあ、昔の「叙事詩」あたりだと、これは小説代替のような気がするが。「抒情詩」というような、「情」、あるいは「本質」を捉えて、言葉でそれをコーティングして、標本のように届けてくれる力がある人たち、それが「詩人」であると思っている。

池田晶子さんは、人に詩人と呼ばれ、巫女と呼ばれ、観音だと呼ばれた。

本人は文筆家、などと座りが悪い感じで名乗られていたが、哲学者というとあまりに哲人の思想を「学び」「解釈する」だけの人が多いことから、どうも哲学ということば、特に「学ぶ」ということばに違和感をお持ちだったようだ。

つまりは「自ら考えよ」、ということだ。

 

この言葉を頂いただけでも、「ごはんが何杯も食べられる」心地がする。

食べるために生きるのではなく、生きるために食べるのだ。

 

真実や本質を、つまりは「神の言葉」を、その口で示すことから「哲学の巫女」とも呼ばれた。詩人、といわれたのは、やはり物事の本質を、言葉でもって伝えようとされたからだろう。そこから出ることばは、いわば「哲学の散文詩のようなものであったから。

そして「観音」。学ぶ途中ながら将来は仏となる存在。それは未だが未熟の意味ではなく既に悟っているが、衆生への慈悲でこの世にあえてその姿でとどまってくださっている、という感覚も伴う。将来、というのが時を理由とするのであれば、時を超えながら方便として利用している、といったような。

リルケマラルメを例にとってみても、言葉を通して本質をつかもう、とする努力が詩人の魂であったろう。それは西洋では「自我」があり、「自身」が行う、という意識があるいはあったためだろうか。

「巫女」である池田さんは、その口は「通り口」で、真実が「真実のありば」からこの世界に現出する、という感じをお持ちだったと思う。「私」が「悩んで」語る、という感じがないのだ。

そういう意味では、池田さんこそが、言葉を通して真実をぽんと目の前に出してみせる、「真の詩人」だったのかもしれない。

(真実=本質、でしょうか)