さて、東京暮らしで少し残念なのは、新聞だ。
基本的にTVは好きだし、くだらない、というつもりもない。
昔、ジャンルとしてのマンガがくだらない、という言い方があった。聞くたびに反発した。いや、まんがは場所であって、そこでなにが表現されているかでしょ。
コドモ心にそんなことを思っていたもんだ。
それがなんなのか。くーるじゃぱん??儲かるからって手のひらを返したように持ち上げる。まあ、かせぎのいいアイドルに群がるプロダクションか?
また逆の意味で残念である。だがこれは、コドモ時代にみた”大人の心理風景”そのものである。結局なんにも変っていない。
などといってもいまは自分がオトナど真ん中だ。というか、真ん中をはずれてすでに終盤戦が見えてきたのかもしれない。自分の生でできることかな、そんな思いがよぎることもある。池田さんにおこられそうだ、平均寿命は自分の生ではない、と。しかし考えてしまう。健康年齢?男で70歳??あと自分に何年か。
ちょっとずれてしまった。TVのことであった。つまりTVがどうこうではない、面白い番組があるかどうかなのだ。
きちんと選んでみればよし。以上、終わり。
・・とこうなるはずだ。面白いマンガとそうではないのがある。面白いマンガは素晴らしい、以上終わり、であったように。
で、別にTVをくだらないという気はない僕が、ではTVを見ればいいのであるが、でもちょっと目が疲れるから。ビデオ機能がないから、いまやってるのしか見れない。だからなかなかTVを見ることが難しい。
とこうなっている。ではどこから情報を?世間に興味をお持ちではなかった池田さんの境地が理想だが、まあ、一介のサラリーマンとして??
で、まあ、長くなったが新聞。新聞なのである、やはり。名古屋在住のころは読売新聞。結局ほとんど読んでいたのは文化欄と映画情報と身の上相談と読書欄。まあ、あまり新聞である必要はないところばかりではある。しかし、貴重な読み物ではあったのだ。ぱらぱらめくる。興味のあるところを読む。
しかし東京。会社員としてなんだか”日経新聞購読しとけよ”プレッシャーを感じる。読みましたか、あの記事。そんな悪夢のような光景が目に浮かぶ。恐怖で新聞を購読。ああ、残念だ。。
。。。ということではあるのだが、それでもそれはすべてが経済ではないのであった。夕刊のエッセイ欄、題して”プロムナード”。これが愉しみになった。
毎日違う方が書く。なかなか面白い。経済は、ほぼない。
その中の書き手の一人が若松英輔氏である。氏の生と死と愛を深く考察した、考察なのか、体現した、吐露した、絞り出した文章に撃たれることは多い。今読売新聞の書評者でもあられたと思う。好きな書評者は何人かいた。その中に入っている。
で、残念だったのだ。読めなくなるのが。あれ、ここにも。
。。ああ、別の新聞でも書かれているのか。
考えたら、当たり前のことではある。ジャンプの漫画家お抱えシステムではないのだ。文筆業であるかぎり、頼まれれば、書く。当たり前のことであった。
だがまあ、日経とはあまりはだがあっていないような気はする。日経の読書欄、ちょっと厳しい。
ちょっと肩の力の抜けた夕刊紙。その中でのエッセイ欄。基本的にはご自由に、ということなのだろう。
今週見たのは、タイトル、”悲しい花”。
冒頭部を引用する。
”誰かを愛しむことは、いつも悲しみを育むことになる。なぜなら、そう思う相手を喪うことが、たえがたいほどの悲痛の経験になるからだ。宿った情感が豊かで、また相手を深く思えば思うほど、訪れる悲しみも深くなる。”
ああ、これだ。いつもの”若松節”。
毎週、愉しみに読んでいる。