夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

映画「三島由紀夫vs東大全共闘50年目の真実」を見た。

映画「三島由紀夫vs東大全共闘50年目の真実」を見終わった。

 

映画の中で、「オール日本ミスターダンディはだれか?」という記事が紹介される。平凡パンチの記事であるようだ。時期は明確ではないが、これもたぶんこの論争(はたして”争う”の字が適切かどうかはあるのだが)の時期、1968年(昭和43年)頃ではないだろうか。

 

その時代の空気を、感じることができる。順位を見てみると、

1位三島、2位三船敏郎、3位伊丹十三、4位石原慎太郎、5位加山雄三、6位石原裕次郎、7位西郷輝彦、8位長嶋茂雄、9位市川染五郎、10位北大路欣也、と来る。

 

この時代の平凡パンチ読者11万票余りの結果である。50年以上前の空気であるので推測するしかないが、印象深いのは、映画俳優を押しのけて(映画も撮ってはいたが)三島が1位であることだ。まだテレビの黎明期、いまは多分こうした投票自体があまり成立しないかもしれない。

 

ダンディ、である。これは平凡パンチの読者層(勝手な推測だが、多分この論争に関心のある層と被るのだろう。下は16歳くらい、上は30歳未満であるだろう)が、自らがこうありたい、と憧れるどちらかというと年上の男性のことであると感じられる。

翻って、自分にとっての”ダンディ”とは誰だろうか。もちろん時代が違っているが、憧れる男性、というのはそもそもあまりいないようだ。ロールモデルが、少ないのだろうか。

 

青少年期は澁澤龍彦(最近古本も買いましたが)、銀幕では高倉健、芸能界では吉川晃司(ファンなんです)、位だろうか。結構この選択はすでにマイナー(吉川はまあ別にして)であろう。作家と映画俳優がいるあたり、考えてみると我がメンタリティは結構この時代の平凡パンチ読者と地続きなのかもしれない。

11位以下も興味深いので見てみる。知らない名前も出てくる。

 

11位三橋達也、12位福沢幸雄(この方はわからない)、13位黒沢年男、14位大橋巨泉、15位黛敏郎、16位藤本義一、17位中山仁、18位野坂昭如、19位石坂浩二、20位生沢徹、21位宇津井健、22位でやっと高倉健である。

 

雑誌読者へのアンケートであり、作家は当然雑誌に寄稿するわけだから、あるいは三島の一位はありえなくはないのかもしれない。だが一位である。どれほど三島がこの時代の寵児であったのかが、わかる。当時もっとも注目されていた男性、といえるのだろう。投票11万票中、2万票も集めている。2位の三船敏郎も1万9千集めているが、3位は1万を切って約8千票、断トツ、と言えるだろう。

 

三島がなぜ自決しかのか、を考えた。結論が出てはいない。だが、内田樹氏が劇中で語る言葉を聞いて、すこしわかる気がした。

 

その章(映画だが部分部分でタイトルが示されており、ドキュメンタリー風の構成である)のタイトルは、「生き残った者の苦悩」である。1925年生まれの三島は、終戦1945年頃で20歳。三島自身は戦争に行ってはいないが、同世代で戦争に行ったものも多い。同世代のものは戦争に巻き込まれ、”行けば即ち死”。その覚悟であったろう。三島にとって、死はものすごく身近なものであり、同世代にとっては、”強制であるが故に、矜持から自ら選んだ形と敢えてしたいもの”が死であったのでは、ないだろうか。

 

「国運と個人的な運命が完全にシンクロしていた」のが当時のティーンエイジャーであった、と内田氏は言う。それが敗戦で、「国は国、個人は個人」となり「国はアメリカの属国のようなもの」になってしまった。

 

そしてもう一度国運と個人の運命を一つとしたい、という欠落感がこの世代には濃い、と読み解かれている。なるほど、このあたりが三島の考えと行動を考えた時の、理由になりうるかもしれない、と思った。

 

勿論、本人がいない以上、私は、ずっと考えるしかないだろう。だがその行動で、大きな疑問を残すこと、それを三島は予期していた、意図していた、と感じるのである。

 

芥川龍之介川端康成も自殺した。太宰治も、自殺した。状況から見たいろいろな解釈はあるのだが、本当に彼らがどのように考えていたのか、はもちろん本人のみが、抱えて逝ったものである。

 

池田晶子さんは言った。”さて死んだのはだれなのか”。西欧の人々はいつも思い出さされていた。半ば強制的に。”死を想え”と。

 

三島由紀夫の死もまた、その問いを、思い出させるものである。

 

結尾の年月日が、自決の当日となっており、その日時に敢えて三島はその原稿が出版社に届くように、と図らったともいう「豊穣の海」最終巻「天人五衰」の最後の部分から引く。

そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めてゐる。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまつたと本多は思つた。
庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる。………

ここで記される”夏の日”、それはあるいは三島にとっての”終戦の日”のことであるのかもしれない。

(三島の死のあとの、奥さんの態度もまた、凄いものだとおもいます。三島を良く、理解されていたのだ、と思います)